blind summer fish 12

 よたよたしながら三冊の本を抱えてきたアルフォンスは、慎重に、ゆっくりとゆっくりと床に下ろした。その後ろから水差しとコップの乗ったトレイを運ぶエドワードの前で、開けっ放しの窓から吹き込んだ風がドアを閉める。両手がふさがっているエドワードの代わりにロイがドアを開けてやると、小さな声が聞こえた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 そっけないが礼儀正しい。母親によく躾けられたのだろうと思う(多分父親は子育てにほとんど関与していない。)
 ホークアイ少尉に積み上げられた机の山をどうにか処理し、久々に予定通りに勤務からはずれることのできる非番の午後だった。仕事場からメリッサに電話をし、「午後は勉強をするから遊びに行かないで待っていなさい」と伝えてもらうと、電話の向こうでアルフォンスの喜ぶ声が聴こえた。
 ロイの家は二階建てで、どう見ても一家族が住んでちょうどいいくらいの広さだった。本当はもっと狭い家かフラットで充分だったのに、紹介してくれた知人のせいで今にいたる。はっきりいって独身男には広すぎた。
 軍の士官であり国家錬金術師でもあるロイは特に散財するわけでもないので懐に余裕はあるが、無駄遣いは好きではない。家賃も相当なものだろうから断る、と告げたのに、知人はまったく意に介さないでロイに契約書を差し出してサインを求めた。
『それがちょっと訳ありですっごい安いんだ。家賃?いやいや、一括払いで頼むってさ。あー、心配することないってば。だからすっげえ安いんだって。この家の前の持ち主がちょっとな……』
 その「ちょっとな」の部分をロイはものすごく聞きたかったのだが、知人は言葉を濁し、視線をそらし、挙句の果てにはロイの背中をばんばんたたいてこう言った。
『なーに。家族全員首くくったとかじゃねえからさ。化けて出やしねえって』
『いや、しかしだな、こんなに広くても――』
『持ち主から提示された額はこれ!』
 そう言って彼が、つつつとロイの前に押しやったメモには、街の中心部で独身用のフラットを借りるのに支払う額の一年分だった。確かに、とても安い。しかも司令部から近すぎず遠すぎず。車が出せない日でも充分に歩いていける距離だ。
 胡散臭そうな背景を別にすれば、けっこうな好物件だった。
『なー、マスタング。いいだろ?』
『実物をこの目で確かめてみないことにはな』
『じゃ、これから行って来ようぜ!』
 フットワークの軽い知人に急き立てられ、やってきた家の前でロイは「これは相当うさんくさい理由がありそうだ」とため息をついた。外観は近所の家々と変わらない。中に入ってみても床も抜けてなければ壁紙も剥がれていない。要するに、値段に見合うボロ屋ではない。
 前の持ち主が二束三文で売り払ってもいいと思っているような、よっぽどせっぱつまった状況におかれているということだ。
『まさか、夜盗に襲われるなんてことはないだろうな』
『え?……そんなことないって!大丈夫大丈夫!……』
 多分、と呟いた声にロイは顔をしかめた。
『頼むよマスタング。来月頭に引っ越せば、それまでにはヤツらも家捜し終わって――あっ』
『お前な……少し口を慎むことを覚えたほうがいいぞ』
 もうだいたい読めた。いまさら焦っても遅いんだバカめ、とロイは苦笑して『わかった』と告げた。
『わかったって?』
『だから、買うと言っている』
『ほんとか!?』
『明日から引越しを始めるからお前も手伝え』
『来月まで待てよ』
『実はな、手配書があったのを思い出したんだ。ある窃盗団の、な。確か、経理を担当していた者が半年ほど前に逃げ出して、その者を追ってヤツらがつい最近イーストシティに入ったと聞いている』
『お、俺は違うぞ!その、窃盗団とはなんの関係もないからな!』
 焦れば焦るほど疑わしいが、わざわざロイに家を買う話を持ちかけてきたことからして、彼が関わっているのは窃盗団本体ではなく、その経理担当の者だろう。それなりに長いつきあいだから、この男が集団の中で足並み揃えて物事を進めるようなことが出来るとは思っていない。人当たりのいい個人主義者だ。
『お前が何をしていようとかまわんさ。ただ、ヤツらを捕まえる絶好の機会だ。せいぜい利用させてもらう』
『……マスタングにこの話持って来てよかったんだか悪かったんだか、ちょっと決めかねてるよ』
『いまさらだな』
 そうして、フラットの家賃一年分と引き換えに、この家はロイのものとなったのだった。
 買ってから悠々自適な独身生活をしていたために、使わない部屋は埃だらけになっていたのを、メリッサが驚異的な速さで掃除をしていった。彼女のおかげで、兄弟の勉強用に空けた一室は、塵一つ落ちていない。
 置いてあった家具はすべて他の部屋に移した。一面に窓、あとはすべて薄いベージュの壁紙に囲まれた部屋の床に本や紙、ペン、それに水差しのトレイを並べ、三人は直接床に腰を下ろした。
「ちゅうさ、このおうち、すごく広いですね。さみしくないの?」
 ロイのすぐ隣に座ったアルフォンスが、部屋をぐるりと見渡した。自分たちに与えられた部屋も充分の広さを持っていたのに、さらに勉強用の部屋まで用意されて、驚いているようだった。
 そこでこの家を買う経緯を話して聞かせると、ロイが部下を待機させて窃盗団を捕らえたところでアルフォンスは拍手をして喜んだ。
「つよいなー、ちゅうさ!」
 無邪気に感心するアルフォンスをよそに、エドワードは興味無さそうにそっぽを向いている。勉強以外のことは関係ない、とでもいうように。ただ、その両手は、小さな音を立てて合わせられている。とても小さな拍手。けれど確かにそれは、ロイの話を聞いていた証拠だった。