blind summer fish 13

 実はこどもが大好きなのかもしれない。
 二人の生徒に教えながら、ロイはその一生懸命取り組む様子と、しっかりペンを握り締めている手、真剣に手元に広げた紙を見つめる目を見て思った。なんにでも、一生懸命な人を見るのは気分が良いし、心惹かれるものだが、それがこどもとなるとどうしてこうも可愛らしいのか。
 しかしこれがもし、ものすごくやんちゃで、机にじっとしていなくて、部屋の中を駆け回った末に外へ飛び出していくようなこどもだったら「好きかもしれない」なんて言えるはずもなく、たまたま二人の兄弟が勉強に対しては真面目に取り組む子だったから好意を抱いて眺めていられるのだろう。
 ピナコの話では、二人は学校へしっかりと行き、けれど兄は悪戯好きで、授業が終わると弟ともどもあっというまに遊びに行ってしまうようなこどもなのだそうだ。いま思えば、なんだか嘘を聞かされたみたいな気分だ。
 こちらに呼んでからすぐに学校に入れるつもりだったのを、こちらの授業の進み具合を問い合わせたところ、リゼンブールの進行具合とだいぶ差があった。
 イーストシティでは、下町で暮らすこどもの普通学校への就学率はそれほど高くない。小さな店を継ぐのに必要な識字力と計算力は、学校に行かなくても近所の年嵩の者に教えてもらうだけで充分に足りる。長い間戦乱の舞台となった東部地域に住む人々は、将来を考えるよりも今この生活を守ることを優先した。裕福な商人や士官になった軍人の娘息子はともかくとして、彼らの中で上級の教育機関まで進む者はごく稀だ。国の将来を思うなら、裾野を広げ、彼ら庶民に教育の場を与えるべきだというのがロイの持論だが、兵学校にこどもを多く受け入れ、軍人に育て上げようとする国の方針とは反するので、おおっぴらに言って回ることはない。せいぜい、仲間内で酒を交えながら話すくらいだ。
 結果的に普通学校へ進む者はその先を目指すことが多く、田舎の学校とは学ぶことにも大きな隔たりがあった。
 エルリック兄弟は基本的に頭はいいが、知識に偏りがある。例えば、錬金術に関する知識は突出しているのに、この国の歴史に関してはさっぱりだとか。いますぐ普通学校に放り込んでもそのうち追いつくだろうとは思うが、こういうことは最初が肝心だ。初めての授業でさっぱり内容がわからないとあっては、もし意地の悪いこどもが一人でもいれば、からかいの対象になる。そんな可能性のある場所にエドワードとアルフォンスを置いておきたくはなかった。
 したがって家である程度、偏った知識を補う個人授業をしようと考えたのだが、なにしろロイには時間がない。空いた隙を縫って教えたいのは、文学とかもうどうしようもない社会情勢とかではなく錬金術だ。そこでロイはメリッサの申し出に甘えて、彼女に普通教育を託した。身近に彼女ほど家庭教師に適任な人物は思い当たらない。貴族やら上級軍人やらの世界を知っていて、なおかつ下町にも詳しく、礼儀正しく、知識も豊富。まったくホークアイ少尉は良い人物を紹介してくれたものだと思う。
 そしてロイの希望通り、二人は着々と勉強を進め、来週から学校に通うことになっていた。錬金術だけじゃなくてバランス良く知識と思考能力を育ててほしい。こんなふうに、一生懸命勉強してほしい。
 インクで手を黒くしながら構築式を書き綴る兄弟をしばらく眺めていたロイは、ふと奇妙なことに気がついた。与えた問題を解くエドワードの手が時折不自然に止まる。そういうときのエドワードは、横のアルフォンスをちらっと見て、また安心したように解き出すのだった。
 答えを盗み見るというよりも、区分ごとに弟が出来ているかを確かめるよう。
 注意深く観察するとまたエドワードの手が止まり、迷っているアルフォンスに小さく「一グラム」と囁く。
「エドワード。こそこそするのはやめなさい」
「こそこそなんてしてない」
「そうかい?アルフォンスに問題を解くヒントを教えていたように聞こえたが」
「ちゅうさの気のせいだ」
「本当にわからなくなったら私が教えるよ。わからないところがあって当然なんだからね。エドワード、終わったのなら今度はこの本の50ページを読んで要点をまとめなさい」
 むっとしたエドワードは、それでも言われた通りに本を開いて課題に取り組み始めた。


 日が暮れる頃、ノックの音がした。
「夕ご飯の時間ですよ」
 扉の向こうからメリッサの柔らかい声が聞こえ、三人のお腹が次々に、ぐぅと鳴る。
「じゃあ今日はここまで。片付けはあとでいいから、ご飯を食べよう」
 ロイの言葉に兄弟は嬉しそうに戸口へ駆け寄り、扉を開けて廊下に飛び出した。その背中を追って、ロイもゆっくりと立ち上がる。と、くるっと回れ右して戻ってきたアルフォンスが、ロイの手を引っ張って「はやく、はやく」とせかした。
「そんなに急がなくても夕飯は逃げないよ、アルフォンス」
 部屋を出ると、てっきり先に階下へ行ったものだとばかり思っていたメリッサとエドワードが、まだ廊下にいた。二人とも両手にタオルを抱えている。
「バスルームに補充しておくのを忘れていましたの」
 干したのを取り込んで二階に置きっぱなしだったのだとメリッサは恥ずかしそうに笑った。珍しいこともあるものだ。
 手を引っ張るアルフォンスにつられて、タオルを持った二人の先を歩くと、そのアルフォンスが意を決したようにロイに呼びかけた。
「ちゅうさ」
 見れば不安そうな表情を浮かべている。
「なにかしんぱいしてることがあるの?」
「何もないよ。でもアルフォンスにはそう見えるのかい?」
「どういえばいいのかわかんないんだけど……かなしそうだから」
「大丈夫だよ。そうだね……しいて言えば、アルフォンスがいつおねしょをしてしまうのかが心配かな」
「しないもん!」
 ぷぅっと頬をふくらませるアルフォンスをひょいと抱えて間近で微笑むと、アルフォンスもふくれっ面をにっこりとさせ、両腕をロイに首に回す。
「あら、何かいいことがあったの?」
 アルフォンスを抱っこしたまま階下までのわずかな距離を歩いていると、後ろでメリッサがエドワードに尋ねる声が聞こえた。
「べつに……」
「お勉強は楽しかった?」
「……うん」
「それはよかったわね」
「メリッサ。あの……ちゅうさは……」
 トントンと軽快に階段を降りる音にまぎれがちなエドワードの答えは、ロイの耳に途切れ途切れにしか届かない。いまのエドワードの言葉が、自分に対する態度の硬さを解きほぐす鍵になるかもしれないのに。