blind summer fish 14


 自室で机にあるスタンドの照明だけをつける。カップから立ち上る湯気が、温かみのある光にゆらゆらと映った。カップの中身は紅茶で、ロイが自分で入れたものだが、味は悪くない。
『これだけは譲れません』
とメリッサが宣言して取り寄せた茶葉は、そうするだけの価値があり、紅茶など淹れ慣れないロイが見よう見まねでやってもまずくはならない。
 メリッサがいるときは彼女がお茶のしたくをするのだが、先日一度だけロイが淹れたことがあった。
 まずくないといってもやはりメリッサのとは随分と味が違うようで、一口飲んだアルフォンスが首を傾げて「いつもと違う」と言ったのをすぐさまエドワードが「黙って飲め」とたしなめた。エドワード自身は少し眉を寄せただけで、あとは気にするそぶりも見せずに黙々とお茶を口にし、お菓子に手を伸ばしていた。そして一度、ポットに残ったお茶をお代わりした。
 おいしいとも言わないし、まずいとも言わない。
 実際、自分で飲んでも決してまずいわけでもなく、おいしいと言えるぎりぎりの線だったと思うのだが、何分、何を作っても料理に関してはいいとも悪いともいえない才能しか持ち合わせていない。ここまでとらえどころのない料理を食べたのは初めてだと部下にまで言われる始末で、その程度の実力がお茶にまで及んでいる可能性は充分にある。
 しかし、そんな中途半端な味ならば普通、二杯目を飲むだろうか。砂糖と嫌いな牛乳をたっぷり入れてまで。
 どうも嫌われているわけではなさそうなんだがな。
 そのときのエドワードを思い出して、ロイは小さくため息をついた。
 兄弟をこの家に迎え入れてから一ヶ月は経ったが、いまだにエドワードの頑なな態度は崩れていない。かといってメリッサに対してもそうであるかといえば、台所でメリッサの周りでちょこまかと動き手伝いをしていることもあったし、笑い声が聞こえてくることも頻繁にある。笑顔も何度も目撃した。
 そしてたまたまロイが顔をのぞかせると、エドワードの笑い声はぴたりと止み、メリッサが困ったような顔をして苦笑いをエドワードに向ける。一緒にいたアルフォンスは「ちゅうさ、おかえりなさーい」と駆け寄ってきてロイの足元にまとわりつくのだ。その小さなこどもを抱え上げてロイが「ただいま」と言うと、アルフォンスが嬉しそうにもう一度「おかえりなさい」と言って、メリッサがおたまを片手に会釈をしながら「おかえりなさいまし」と言い、エドワードが硬い態度で頭を少しだけ下げる。無言のまま。
 そんなふうに態度は頑ななのに、嫌われているわけではないと思うのは、ロイが近寄ってもエドワードが逃げないからだ。勉強以外でも、何かを聞けばちゃんと答えるし、時折は、日中に起こった出来事を自分から話してくれることもある。不思議だった。この性格からして、嫌っているのだったら弟を連れてリゼンブールに帰ってもいいのだから。それなのにエドワードは一ヶ月もここにいる。ロイの家で日々を過ごしている。今も、自身に与えられた部屋で、もう眠りについている頃だ。睡眠も充分に取っているようだし、食欲も落ちていない。嫌いな相手の家で、日常生活をしっかりと送れるものだろうか。大人ならばともかく、あの年頃のこどもが。
 何があったのだろう。出会ったときから、イーストシティーに来るまでの、一週間にも満たない時間の中で。
 ピナコから受け取った手紙には、特に気をつけるべきことは書かれていない。兄弟をよろしく頼む旨、何かあったらすぐに連絡がほしいという旨、身近な養い子を心配する極々普通の内容の手紙だった。ということは、ピナコのあずかり知らぬところで不都合が起こったとしか考えられない。つまり、ピナコに連絡を取っても理由はわからないわけで、ロイは頭を抱えるしかなかった。メリッサがエドワードに聞いても、あのこどもはそのことにだけは口を閉ざしてしまうようで、八方ふさがりだ。
 エドワードに倣って、たっぷりと砂糖と牛乳を入れた紅茶を飲んでみても、彼の考えていることはわからない。ただ、わからないなりに気分が落ち着くのは確かだった。
「自分のこどもの頃か……」
 あまりに遠い昔で忘れてしまった。ハボックには等価交換などと言ったが、人は忘れる生き物だ。何かと引き換えにしてではなく。
 忘れたいものを忘れるのは、心の平安との等価交換だが、忘れたいと特には思わないものも忘れていく。そして、忘れたくないと思ったものですら、時が経てば記憶が薄れる。
 本当に忘れないものは、忘れるべきではない人と出来事のことで、そのときそのときの人の意思とは関係がないのだろう。強固な意志だけが、記憶をつかさどる。
 ロイにとって、己のこども時代など、忘れてもよかったものであって、忘れるべきではないのは人の命が失われていく様と、新しい命が生まれる瞬間だけだ。これから先も、ずっと。