blind summer fish 15

 その日の始まりは些細ながら、確かに大きな転機の日だった。
 朝の時点で、普段とは少し違うことがあった。メリッサがいない。
 いつも朝は散歩がてら30分かけて歩いて来て、七時半にはここに着いて、八時にはおいしい朝食を用意してくれているはずの彼女は、その日はアームストロング家に顔を出さなければいけないだとかで、前日の夜にセントラルへ向かって旅立った。
 代わりにメリッサともすっかり馴染みになった肉屋の女将が湯気の立つバスケットに蓋をして、届けてくれた。
 メリッサが少しの間イーストシティーを離れるのは一週間前からわかっていたことだったが、女将が朝食を届けてくれるのはロイの予想外だった。メリッサの用意の良さにロイは心から感謝した。女将が来てくれなかったら、朝食は多分、トーストと紅茶だけだった。
 礼を言って受け取ったものを、ダイニングのテーブルの上で開けると、中に入っているのは玉ねぎの入ったスープ、香ばしい匂いのベーコン、ほうれん草とポーチドエッグのココット、それに焼きたてのパンだった。粒の入ったオレンジジュースと、いちごのジャムも添えられている。メリッサが作るのと、ボリュームもそう変わらない。
「おはようございます」
と言ってダイニングに入ってきた兄弟も、バスケットの中身をのぞいて嬉しそうに目を輝かせた。
「いいにおい!」
 眠そうに目をこすっていたアルフォンスは、眠気など吹き飛んだ様子でいそいそと戸棚からコップを取り出す。
 ロイ一人のときには空間だらけだった戸棚は、今ではさまざまな食器が揃えられ、中でもよく使うコップや皿は、兄弟でも届く、戸棚の一番下の段に収められていた。
 アルフォンスがコップの用意をする一方で、エドワードはフォークとスプーンと、ジャム用のナイフを引き出しから取り出してテーブルに並べた。そしてすぐに戸棚へと引き返し、スープ用の皿を出して同じように三人分、テーブルに並べていく。ロイに残った仕事は、蓋付きの壷に入っているスープをよそうことだけだった。
 ……情けない。
 家事となるとまるっきり役に立たない己に呟いた声は、兄弟に聞こえることはなかった。
「今日は一度昼に戻って来るからね。それから職場に戻って、夕方には帰る」
 食事が終わった頃に今日の予定を告げると、アルフォンスがオレンジジュースの瓶に手を伸ばしたので代わりに瓶を傾けてお代わりを注いでやった。
「ありがとう、ちゅうさ。メリッサは今夜も来ないの?」
「明日遅くに帰って、あさっての朝に来るそうだよ。それまでいい子にして待っておいで」
「うん!」
 素直な返事にロイの顔から自然と笑みがこぼれた。アルフォンスは素直で可愛らしくてよい子だ。とても愛しく思う。一方で、いくら強固な態度を取り続けていてもエドワードも愛しい。食事が終わってすぐに自分の分だけでなくロイとアルフォンスのお皿を片付けるところ、弟の口の端についたパンくずを丁寧に取ってやるところ。しかし、行動の端々が、こどもらしからぬくらいにきちんとしている。もっと、稚い子だったはずなのに。あの数日で、本当に何があったのだろう。
「困ったことがあったら、電話をしなさい」
 かけ方を確認すれば、エドワードが「知ってる」と答えた。万が一かけられなくても肉屋とパン屋の主人夫婦に言えば司令部に連絡を取ってくれることになっている。そう心配する必要はないだろう。
 出掛けにロイは見送ってくれる二人のこどもの頭を撫でた。
「じゃあ、行ってくるからね」
「いってらっしゃい!」
「……気をつけて」
 いまだにいってらっしゃいと言ってくれないエドワードに一抹の悲しさを覚えつつ、アルフォンスの笑顔に見送られてロイは我が家をあとにした。
 こんなに自分の家が好きになったのは初めてかもしれない。昼休みになってすっ飛んで帰るロイを部下たちは「マイホームパパだ……」と半ば呆れながら眺め、戻って来てからもいまいち仕事に身が入らない様子をこう評した。「無能……」と。
「そんなに心配なら、連れてくればよかったんですよ」
 ハボックは火をつけていない煙草を銜えて言った。
「煙草はやめろ」
「いつもはそんなこと言わないじゃないですか」
「匂いが移る」
「だから火はつけてないでしょーが」
 まあこどもが可愛いのはわかりますけどね、と一応同感の意を示しておきながら、差し出すのは未決裁の書類の束だ。
「全部目を通してくださいね。頼みますよ、ほんと」
 担当者からよほどせっつかれているのだろう。今ロイが取り組んでいる書類の上に断りもなくどさっと落とす。
「順番を守ってほしいものだが」
「それ、昼までに印をくださいって言ったでしょ。それなのに中佐がすっ飛んで帰るもんだから、担当者、半泣きでしたよ」
「泣きたいのはこっちだ。どうして今日に限ってホークアイ少尉がいないのかね!」
「そりゃ、少尉がセントラルへ出張だからですよ。予め決められたことなんですから、諦めてください。というか、俺らだって少尉がいなくて困ってますって。中佐は仕事してくれませんし」
 という文句を、彼が代表して言いに来たのだろう。仕事をせっつくついでに。
 あとでコーヒーでも差し入れます、とありがたい言葉を置いてハボックは出て行った。
 確かに、仕事に身が入らないでぼーっとしていては、残業になってしまう。今日明日はなんとしても定時に帰らなければならないのだ。あのこどもたちが待っているのだから。
 ロイは大きく深呼吸をすると、真面目に仕事に取り組み始めた。
 ハボックがコーヒーを携えてやってきたのはそれから30分後のことで、おいしくもまずくもないコーヒーを一杯飲み終えると、二時間ほど集中して未決裁の書類の山を決裁の山に変えた。やれば出来ますのに、という副官の声が聞こえてきそうだ。
 そして仕事が片付けば考えるのは家のことだ。落ち着かない。非常に落ち着かない。こどもたちはどうしているのか、おやつは置いてきたが食べているだろうか。変な人物が訪問してきたりしないか。
「こんなことならやはり連れてくるべきだったか」
 こんな仕事場はあまりこどもの出入りするべき場所ではないのでロイは元からこども連れで出勤するつもりはなかったのだが、こんなふうに心配するくらいならばいっそ連れてきたほうが安心出来ていい。今度から、メリッサが来られないときはそうしようか、と本気で考えたところで慌しく扉をノックする音が聞こえた。
「誰だ?」
 問いに対する答えはハボックのものだった。てっきり追加の山でも運んできたのかと思ったら、彼はロイの了承を得て扉を開けると幾分困った様子で頭をかいた。
「エドが……」
「エドワードがどうした?」
 ハボックが体を少し横にずらすと、その背後からそろそろとエドワードが顔をのぞかせた。
「どうしてここにいる?」
「っ、……ごめんなさい」
 厳しく問い詰めたつもりはないが、エドワードはびくっと震え、ハボックのズボンの裾をつかむ。それに少しの苛立ちを覚えながら、ロイは努めて優しい声を出した。
「怒っていないよ。こっちにおいで」
 エドワードはロイをじっと見つめ、意を決したように近寄ってきた。ロイは自分よりはるかに小さいエドワードの視線の高さに見合うようにかがむと、その顔を覗き込む。
「アルフォンスは?」
「アルが……アルがっ」
 聞いた途端、エドワードはロイの服をぎゅっとつかんで訴えた。
「アルがいなくなった……!!」