blind summer fish 16

 雨の日は無能な上司と同じように、平時はあまり仕事熱心ではない咥え煙草の部下は、そのとき煙草を吸うために廊下の休憩スペースにいた。上司に煙草を吸うなと命令されたので、平時ならば勤務時間中でなければ喫煙は軍務規定には違反しないので「そんな理不尽な命令はきけません」と答えたところ、「では一日三本まで」と向こうが譲歩した。別に仕事場にかわいいこどもたちを連れてくるわけでもないだろうに、ここ最近、急に部下の日常生活やら習慣やらに興味というか監視の目を向けたようだ、我らが上司は。
 確かにまったくの知らんぷりより少しくらいは上司が目を光らせていたほうが気持ちも引き締まるというものだが、いままで風邪を引いただとか熱を出しただとか、体調の変調にしか気を遣ってこなかった上司になんやかんやといわれるのは、はっきりいって鬱陶しい。こどもが出来ると誰しも変わるのだろうか。しかし若いくせに泰然としている上司がこどものことでおろおろしたり悩んだりしているのは見ていて楽しいのは確かだった。イシュヴァールの英雄の一人として、一部では冷酷、非情、はては人にあらずとまで言われたロイ・マスタングがこどもに振り回されている。上司が身寄りのないこどもを引き取ったとか、いや実は隠し子だとかいう話は東方司令部中を駆け巡ったが、この新たな噂を聞きつけて、まだ年若い上司に、理解のある人間がいい意味で興味を持ってくれれば、と敵の多い上司のことを考えるにつけて思うのだ。
 といってもそれとこれとは別で、煙草の件に関しては、そのうち何らかの形で借りを返してもらおうと決意している。スモーカーに一日三本はきつい。それを、上司の個人的な理由によって減らしているのだから、実に自分の度量は広いと思う。自画自賛。
 そんなふうに三本のうちの貴重な一本を大切に吸おうとしたところ、窓から門の側でなにやらもめている様子が見えた。そこにいたのが見覚えのあるこどもで、どうしてこんなところにと思って門まで急ぐと、敷地内に入ろうとするエドワードと止めようとする門番が押し問答を繰り広げていた。
「とにかく、ロイ・マスタングちゅうさに会わせてください!」
「だから坊主がいったい何の用だい」
「かんけいないだろ!いそいでんだよ!」
 近づくほどに会話がよく聞き取れるようになり、そのやりとりが「中佐と一体どういう関係だい」「ちゅうさんちでめんどうみてもらってるんだ!」「中佐にお子さんはいないはずだよ。坊主、嘘をついちゃいけないな」「だーかーらー、子どもじゃないんだって!ひきとってくれてそだててくれてんの」「中佐がそんなことするかねえ」「いい人なんだってば!」「ああ、わかったわかった。おじさん、仕事が忙しいからまたあとでな」となるにいたって、ハボックはようやく口をはさんだ。
「久しぶりだな、エドワード」
 名前を呼ばれて幼子ははじかれたようにハボックを仰ぎ見た。
「えーと……ハボックじゅんい?」
「よく出来ました。中佐に会いたいのか?」
 勢いよくうなずいたこどもを抱きかかえると、門番が面食らってハボックとエドワードを交互に見つめた。ハボックは困ったように火のついていない煙草をゆらゆらと揺らしながら言う。
「この子は中佐が面倒見てる子だよ。次からはすぐに中佐に連絡を寄越してくれ」
 目を丸くしたままの門番を放っておいて、ハボックはエドワードを片手で抱き上げたまま、敷地内を悠々と歩いた。あの門番は、あれだけ噂になった中佐の隠し子説を耳にしたことがないのだろうか。それはそれで貴重な人間だが、必死の様子の小さい子相手にあの態度はいただけない。ハボックはこどもが基本的に割りと好きな部類に入るので、余計にそう思うのかもしれなかった。
 そして今、己の腕にちょこんと座って落ちないようにしがみついているこどもは、一体なぜここに来たのか。道々、理由を尋ねてみたが、エドワードは最初の勢いが嘘みたいにおとなしく黙ったままだった。じゃあ質問を変えてみようかと、先ほどの門番との会話を思い出す。
「なあ、エドワード。中佐はお前にとっていい人なのか?」
 エドワードがみじろぎする。ハボックの軍服を握っていた手に、ぎゅっと力が込められた。エドワードは何も言わないが、あえて言うならそれが返事なのだろう。
 中佐の悩みもわかるような気がする。多分これがエドワードの本心で、それを中佐に伝えたくないのだとしたら。
 結局、エドワードからは何の回答も得られず、しかも、執務室の前で下ろしてやるとハボックの影に隠れようとした。ひょっとして、中佐が恐いのだろうか。いい人でも厳しくて恐いとか。
 なるほど、上司の言うとおり、こどもの考えることはよくわからない。人は誰しも、こどもであったのに。