blind summer fish 21


 結局行かせてしまった。
 ロイが少し目を離した隙に、エドワードは音もなく室内を横切り、最後にパタンと小さな音を響かせて出て行った。ロイが振り返ったときにはすでに扉は閉まっていて、耳を澄ますと歩幅の狭い足音が聞こえた。
 追うのは簡単だった。何キロも先にいるのならともかく、十メートルにも満たない距離にいるのだから。
 けれど追わなかったのは、エドワードの為だった。ここにいては、アルフォンスが見つかっても、強すぎる責任感で自分を責める。何もしないで待っていただけでは、自分の責任を感じたまま払拭されることはない。
 廊下の外で焦った様子のこどもを呼び止める、耳になじんだ部下の声がした。少しもしないうちにその部下が執務室の扉をおざなりにたたいて、ロイが許可も与えないうちに顔をぬっとのぞかせた。
 どうします?という顔にロイは短く答える。
「フュリー軍曹に追いつくまででいい」
 すぐさまハボックはロイの言いたいことを解して身を翻した。
 窓際にいるロイは、しばらくして建物から練兵場へ飛び出していく小さな後ろ姿を見つめた。前方にフュリー軍曹の一団がいる。予想以上に早いエドワードの足ならば、少しもしないうちに追いつくだろう。エドワードの後ろから早足で進むハボックの姿も見える。この分だと、エドワードは無事フュリーたちに追いついて、ハボックは早々にお役御免になるはずだ。
 ほんの少しの距離すら、部下に見守らせるほどに心は焦る。
 肉屋やパン屋の主人から、見つかったという連絡は入ってこない。各詰め所への問い合わせもまた、幾度か試した。よくある問い合わせに、向こうも熱の入らない返事ばかりだ。
 このたいして広いとはいえないイーストシティでも、日々さまざまな事件が起こる。警察機構に回されるものも含めれば相当な数にのぼる。その多くは瑣末なもので、多分、アルフォンスがいなくなってしまったのも、大きな視点から見ればほんの些細なことだ。こどもが一人いなくなった。捜索願を出す。捜索に動く。見つかろうが見つかるまいが、最終的に軍部に納められるのは事件の経過を示すたった一揃いの書類。場合によってはただの紙切れ一枚だ。
 巻き起こる数々の出来事一つ一つに心を割いていてはとても仕事にならない。だから書類上、机上のものとして処理をこなしていく。内情はわざと考えないように。外郭を捕らえて表面を掬って、ファイルに納める。そうしていくうちに麻痺する。時折、内側に踏み込まなければならない事態が起こる。麻痺が解かれる。解決すればまた日常に戻る。積み重ねられる瑣末事にまた感覚は麻痺する。その繰り返し。こども一人がいなくなったことくらい、ロイにとっては小さなことだった。そう思うようにしていた。それなのに。
 身の内に迎え入れた少年たちは、ロイの麻痺した感覚をすっかりと溶かしていった。冷蔵庫から出した氷を室温でゆっくり溶かすのではなく、お湯に入れたみたいに。
 苛立ちに握り締めた拳を壁にたたきつけると、その場に立ち尽くしたまま、ロイはしばらく動くことが出来なかった。


 金縛りを解いたのはノックの音だった。ノックした人間はきびきびとした声で「ホークアイです。入室してもよろしいですか?」と言う。
「少尉?……入れ」
「失礼します」
 軍服の上にコートを着たままのホークアイの手には荷物があった。予定より早い戻りよりも、彼女が上官の部屋にコートすら脱がずに入ってきたことに驚いた。
「ただいま戻りました。予定が繰り上がりましたので。先ほど駅を出たところでエドワードくんに会いました。ベルベリー小隊のフュリー軍曹と一緒でしたが、ご存知ですか?……そのご様子だとご存知のようですね」
「ここにいろ、と言い聞かせたんだがね。アルフォンスを探すと言って……ああ、アルフォンスのことは聞いたか?」
「ええ。いなくなったとだけ。肝心なときにお役に立てなくて申し訳ありませんでした」
「君のせいじゃないよ、少尉」
 ため息をついたロイを見て、少尉もまた、ため息をついた。
「アルフォンスくんが行きそうな心当たりはすべて当たりましたか?」
「もちろん」
「では、メリッサさんには聞かれましたか?彼女なら、他に心当たりがあるかもしれません」
「彼女は今セントラルに行っていて――」
「電話なさればよろしいでしょう。今ならまだアームストロングの本家にいるはずです」
 どうしてそれを、とロイが問うまでもなく、ホークアイは淡々と続けた。
「セントラルでメリッサさんにお会いしたときに伺いました」
 セントラルに出張することを教えたら、向こうで美味しいケーキのお店があるから、とメリッサからお茶の誘いを受けたのだという。
 もし予定が合ったら一緒の汽車で帰ろうと言って別れたのだが、ホークアイの仕事が早く切りあがってしまって、先に戻って来たのだ。
 ロイが以前アームストロングから聞いて書き留めていたメモの番号に電話をかけ、メリッサに簡単な事情を説明すると、彼女はロイの知らない場所を一つ教えてくれた。汽車の時間を一本早めて帰る、という彼女に礼を述べて慌しく受話器を下ろす。
「では、誰か人をやってフュリー軍曹に伝えてくれ」
 すぐさま踵をかえすと思っていたのにホークアイは動かず、ロイをまっすぐに見つめる。
「中佐……一つ申し上げておきますが、ここにいらっしゃるならその不機嫌な顔をどうにかしてください。この部屋の付近だけ雰囲気が異様で近づけない、と今しがた部下に訴えられました」
「ヤツらが不甲斐ないんだ」
 開き直るロイに、ホークアイは上官に対する態度を打ち捨てた。もうやってられない。
「……ああもうここはいいから、アルフォンスくんを探しにいきなさい。見つかるまで戻って来なくていいです。ほら、何してるんですか。しゃんとして、とっとと出かける!」
 それでも動かないロイの腕を彼女はむんずとつかんで、廊下に押し出した。ほとんど、「蹴り出した」に近い勢いで。
「一応30分毎に司令部に連絡を入れてくださいね。では、いってらっしゃい」
 てきぱきした言葉とともに、振り返ろうとしたロイの鼻先で扉が閉められた。そこは私の部屋なんだが……などという呼びかけは厚い板の向こうへは届かない。
 ありがとう、少尉。
 ロイは己の足でしっかりと立つと、背筋を伸ばしてエントランスへ向かって堂々と歩き出した。