blind summer fish 25

 そのうち、ひざが重くなった。正確には、ひざの上に乗っかっているのが。
 案の定、エドワードが眠っている。10分ほど前からうとうとし始め、とうとう我慢の限界を迎えたようだ。
 ロイはエドワードを抱き上げると、ソファーに運んでアルフォンスとは反対のひじ置きを頭にして寝かせた。毛布がないが、仕事が終わるまでそうたいした時間もかからないと踏んで、自分の軍服を脱いで掛ける。ソファのスプリングが動いたのが気になったのか、身じろぎしたアルフォンスの毛布がずり落ちたので掛けなおしてやる。
 ぷにぷにした頬を思わずつつくと、こどもはむっとしたように顔をそむけた。起こしてしまったかとロイが慌てると、アルフォンスは頬のそばで固まっているロイの手を取り、ぎゅっと握った。
 起こしたんじゃなくてよかったと思ったが、困った。その場から動けなくなった。案外とこどもの力は強い。といってもこじ開けられないほどではないが、力の加減がわからない。うっかり力を込めすぎてアルフォンスの指を痛めてしまってはどうしようもない。とりあえずこのままアルフォンスに捕まえられることにして、中腰は疲れるのでソファーのわきに座り込んでみた。
 まだ仕事が残っているんだが……、とホークアイが来たときの顔を想像すると薄ら寒いものが背筋をかけあがったが、少ししてノックとともに入ってきたホークアイはロイの予想とはまったく違う表情をして首を傾けたのだった。
「捕まってしまいましたね。決裁は?」
「あと一枚読んでサインするだけだ」
 ホークアイはアルフォンスにとらわれたままのロイに苦笑して、机の上から書類とペンを取ってきてくれた。サインするまでそのまま待つつもりなのだろう彼女は、寝ている二人のこどもを眺めて呟く。
「こどもの寝顔を見るのは久しぶりです。可愛いものですね」
「少尉がそんなことを言うなんて意外だな」
「こどもは……好きでしたよ」
 好きでした、と彼女は過去形で呟く。ロイは無言で書類にペンを走らせた。
 町にいるこどもも、あのときあの場にいたこどもも、同じこどもであることに代わりはない。大人も同じだ。皆、同じ人間。それでも、無力なこどもを大人と同じように扱うことは難しい。割り切るのは困難だ。自分とは違って、この心優しい部下には。
「私は君とは逆だな。自分がこんなにこどもが好きだとは思ってもみなかった」
「中佐は……いえ、いいです。失礼しました」
 言いよどんだ彼女に、ロイは言いたいことがあるなら全部言いなさいと促した。
「……失礼ながら言わせていただくと、中佐が二人を引き取られたのは罪滅ぼしのためかと思っていました」
 聡い部下にロイは苦笑いを浮かべた。
「そういう考えがなかったとは言えないがね。すぐに失せたよ。こどもを育てようが育てまいが、場合によってはこれからも手にかけることには変わりないからね」
 彼らと同じくらいの、いやそれよりも幼いこどもまでも。戦地に行け、抵抗するものは誰であっても殺せ、と命令されれば、行って殺す。いままでもそうだった。そしてこれからも。
 こんな自分が罪滅ぼしだなどとは、自分に殺された人たちに呪われるどころか鼻で笑われるだろう。
 この国を変えるために、上を目指す。
 夢を語り合った士官学校の親しい同期たちは、そのほとんどが内戦で命を散らしていった。そして。夢は義務に形を変えた。
 偽善と誹られようと、矛盾と罵られようと上を目指す。誰よりも上に立って、理不尽な命令を下さない組織に作り変える。
 すべてが終わったあとに、人々が自分をどう扱おうと覚悟は出来ている。
 だから人の命を救うために人を殺す矛盾を、自分の中でねじ伏せ続けている。
 ホークアイはロイの生み出した炎の中で焼け死んでいったこどもを両の目で見た。彼女自身も、銃を向けてきた少年を真正面から撃った。射撃で好成績を修めていた彼女が、至近距離の相手の胸を外した。少年は撃たれた右腕から左に銃を持ち替え引き金に指をかけた。同じ隊にいた誰かが、少年を組み伏せ、ナイフをつきたてた。
 それ以来、彼女はどんな相手でも、ほぼ一弾で仕留めるようになった。男でも、女でも。老人でも、こどもでも。
 苦しませないように。自らも苦しまないように。
 けれど、殺した相手に何も感じないというのは絶対的に無理だ。  
「……申し訳ありません。私は――」
「割り切れとは言わない。だが、君を失うつもりはないからな」
 それは、彼女の命を奪おうとする者があったら、容赦なくその者を殺すことを意味している。ホークアイは部下であり、戦友でもある。何度も命を助けられたし、自分の傍には彼女がいることがもう身に染み付いている。
「中佐をお守りするのが私の役目です」
 神妙な顔つきで、ホークアイは誓う。
 それでも、眠る二人のこどもを見る彼女は泣きそうだった。
「寝ているこどもの前で話すには陰惨過ぎるな」
 重い空気を払拭すべく、ロイが肩をすくめるのと扉をノックする音が重なった。
「ハボックです。入っていいですか?」
 ロイが許可を与えると、火をつけていない煙草をくわえたハボックが「おちびさんたち、起きましたかー?」と入ってきた。
 二人のこどもはまだソファーでぐっすりだ。
「ありゃ、まだ寝てるんですか。って、二人ともどうかしました? まじめな顔して」
「まだ勤務時間だぞ、ハボック。まじめな顔をしていて何が悪い。それより煙草。火はつけてなくてもこどもの前でくわえるな」
「へいへい」
「それで用はなんだ。さっさと言え」
 しぶしぶ煙草をポケットに突っ込んだハボックの用事とは、夕飯の誘いだった。なんでも近所の店が賞味期限ぎりぎりの野菜を大量にくれたそうで、一人暮らしの身ではもてあましてしまうからとか。
「まだメリッサさん、帰ってこないんでしょ? 中佐が自分で作るとは思えないし、っていうか、作っても中佐の料理の腕は微妙だし、へたにテイクアウトするくらいなら俺の手料理のほうがまだましってもんです」
 結構失礼な発言だが、ロイは本当に自分の料理の腕を自覚していたので、部下に言い返せなかった。
「……ありがたい話だが、こどもたちが起きないことにはまだなんとも……ってハボック、お前なにをしている!」
 ハボックはソファー背もたれ側から手を伸ばすと、エドワードとアルフォンスのほっぺたをつまんで横に引っ張った。
「起きろー、ちびども」
「ハボック! こどもたちが起きてしまうじゃないか!」
「いや、起こしてんですけど。そろそろ起こさないと夜眠れなくなりますよ」
「今日は疲れたんだから、寝かせてあげたいんだが」
「いくら疲れてるっていっても一日中遠足してたわけじゃあるまいし。それに腹も減ってるでしょ」
 焦るロイに比べてのんびりと答えたハボックは、またむんずとほっぺたをつまみ、ようやく目を開けた二人のこどもに「夕飯、何食いたい?」と聞いた。
 いやまだお前の誘いに乗ったわけじゃないぞ!というロイの叫びを知る由もないこどもたちは、まだ眠気の取れない面持ちではあったものの「ハンバーグ」と口をそろえた。
「よし、ハンバーグな。あと大盛サラダな。なんか食えないもんはあるか?」
「ないよ!」
「……ぎゅうにゅう」
「エドはぎゅうにゅうが嫌いなのか。ヨーグルトは食えるか?」
「くえる」
「じゃあ、決まりな。ほら、起きた起きた」
 あっけにとられているロイをほっぽって、今日の夕飯が決まってしまった。そうこうしているうちに空腹ですっかり目の覚めた二人のこどもは、それぞれ毛布と軍服をはねのけて起きだした。
「ハボックじゅんいのとこでたべるの?」
 ロイの手を離したアルフォンスは、よそさまのお宅に興味深々だ。
「うち狭いけどなー」
「ホークアイしょおいもいっしょだよね!」
「え、いいえ、私は――」
「勿論、少尉もいらっしゃいますよね?」
「わーい! みんなでごはん!」
「と、アルフォンスも喜んでることですし」
「……お邪魔するわ」
 さっきまでの重い空気など、かけらもない。アルフォンスとハボックに押し切られたホークアイが、ともに夕食をとることを承諾したのを見て、ひょっとしたらとても良いタイミングだったのかもしれない、とロイは部下の誘いをありがたく思った。
 一方エドワードはといえば、にぎやかな二人と押し切られた一人のそばで、すそがくしゃっとなった軍服のしわを小さな手でぱんぱんとたたいて伸ばしている。
「ちゅうさ、これもどらない……」
「ああ、いいよ。あとでアイロンをかけるから」
「ごめんなさい……えっと、ありがとう」
「どういたしまして」
 差し出された軍服を受け取ると、ホークアイに忘れられてしまったテーブルの上の書類を揃えて立ち上がった。
 ちょうど、勤務の交代を告げる鐘が鳴った。