blind summer fish 30

 ロイには東方司令部でただ一人、どうしても頭が上がらない人がいる。
 その人は、着任の挨拶に赴いたロイにこんなことを言った。
『ようこそ、マスタング中佐。これからよろしく』
 いままでに受けてきた上官の第一声は
『君があのマスタングくんかね。フーン……君がねえ』
とか
『英雄気取りでいると痛い目を見るぞ』
とかだったので、彼らに比べると東方の司令官の態度も言葉もあまりに普通過ぎてびっくりした。
 イシュヴァールの内乱を経て中佐に昇進したロイは、一年の間に三度、配属先が変わった。二十歳くらいの若造が中佐というのはかなり異例のことで、勤務地ではそれぞれ、揶揄と好奇と妬み嫉みと憎悪の目で見られた。普通だったら何かしら理由をつけられて上官の査定で降格とか僻地に飛ばされるとか、そういう憂き目に合っていただろうと思う。しかし幸運だったのは、ロイが国家錬金術師だったことだ。
 イシュヴァールで国家錬金術師が戦闘に非常に役立つと証明されたことで、他の国境沿いの前線に投入される可能性が出てきた。閑職に追いやったりあまりに理不尽な扱いをして軍をやめられたら、ということを考えると、現状である程度満足させておく必要がある。中央のそんな考えは、ある程度は各司令部の上層部に浸透していった。ゆえに、面倒な案件をまわしてきたり廊下で顔を合わせるたびにちくちく嫌味を言うくらいしか、彼らに出来ることはなかった。
 そもそも国家錬金術師でなければ内乱に投入されることもなく、ロイの出世もないというのは置いておくとして、だ。
 年若い中佐という存在を扱いかねたのか、内乱後すぐに配属された北方司令部から三ヶ月も経たないうちに西方司令部へ転属命令が出た。そして中央に戻り、今回の東方で三度目。
 そのたびに仕事のノウハウは変わり、上司は変わり、部下も変わった。ずっと転属に着いてきたのはホークアイただ一人だ。今度こそ、せめて一年くらいはここに留まりたいものだ、と思っていた。
 留まるからには上官への印象は良くしておいたほうがいい。よっぽど気に食わない相手ならともかく、良くも悪くも無い程度だったら適当に追従してみせる覚悟くらいはしている。その覚悟を胸に司令室の扉をノックしたというのに。
 あまりに普通に挨拶をしてきた司令官は、さらにこう言った。
『マスタングくん。君はあれかね、チェスの心得はあるかね?』
『駒の動かし方を知っている、という程度であります』
『では、教えるから相手をしてくれ。ほら、そこに座って』
 退出許可が出てるわけではないので「じゃあ、さようなら」というわけにも行かず、ロイは言われるままに椅子に座り、チェス盤をはさんで司令官と対峙した。
 結果はロイの大敗。勝負というにはあまりにもお粗末な出来だった。
 そこで諦めてくれればいいのに、弱すぎるロイのチェスの腕は、かえって司令官のチェス魂に火をつけたようで、週に一回のチェスの講義を受けることになってしまった。
 今から思えばそれは、若造の自分が司令部で余計なちょっかいを出されないようにという、彼の考えから起きたのかもしれない。週に一度、仕事ではなく私用で会うくらいに目をかけているぞ、と周囲へ知らしめれば多少の抑制力にはなる。彼が何を考えて、自分をかばうような真似をしているのかはいまだにわからないが。
 そして、ロイはもう一年以上、この東方司令部に勤務し、今も週一でチェスの相手をつとめている。先日ようやく一勝し、このまま波に乗りたいところだった。
 そんなふうに恩義のある相手が、チェス盤を挟んで言ったのだ。
『結婚する気はないかね?』
 ロイがさまざまな縁談を片っ端から断っていることも、何を理由に断っているかも、彼はよく知っている。縁談を持ち込まれることが嫌なことも知っている。どうしても簡単には断りがたい地位の家柄からの申し出も、彼が手を回して無かったことにしてくれたことも何度かある。
 ひょっとして、断ってくれたのは今この縁談を進めるためだったのだろうか。
 とりあえず写真だけでもと封筒を持たせられて週一のチェス講義を終えて家に帰って来たが、どうにも腑に落ちない。どうして司令官が。なぜ今になって。
「それで、そのお嬢さんは将軍とはどのようなご血縁でいらっしゃいますの?」
 宿題をしている兄弟にはそのまま続けるように言い残し、場所を二階の書斎に移すと、メリッサは潜めていた声を普通のトーンに戻して言った。
「将軍の姪御さんだそうだ。詳しいことはおっしゃられなかったが、体の弱い方らしい」
 聞いたメリッサはふと考え込むようにして右手を頬に当てる。
「その方のお名前は、なんとおっしゃったかしら」
「ランディ。ランディ=ローズ」
「あらあら。まあ、……それはおかしなお話ですわね」
 不可解だという顔をするメリッサは、ランディ=ローズ嬢のことを知っているらしい。
「顔見知りかい?」
「いえ、直接存じてるわけではないのですけれど、当代様の奥様のご友人の娘さんがそのお嬢さんと親しくされているので、多少お噂を伺ったことがありますの」
 その噂の中身を聞くにつれ、ロイの顔も話の不可解さに渋くなっていく。
「屋敷の外にも出られないほど体が弱くて、しかも人嫌い……本気で将軍はそのランディ嬢との縁談を勧めて来たんだろうか」
「すぐにも将軍にはお返事なさらなければいけませんの?」
「ん……最大で一週間だな。来週のチェスの時間には返事をしなければならないと思う」
「ご迷惑でなければ、わたくし、奥様にランディ様のことを聞いてみます。それで本当のようでしたら、直接将軍に真意を問いただす、というのはいかがかしら」
 今のところ、それ以外に取る道はなく、多分それが最良の道だった。