blind summer fish 32

 そんなやりとりがあって数日後の休日。
 朝食が終わって、今日は何をするのかと期待の目を向けてくるこどもたちにロイは素直に謝った。
「すまない。今日は出かける用事があるんだ」
 だから宿題という形で、と告げると、兄弟はがっくりと肩を落とす。
 彼らは平日は学校へ行き、帰ってくるとすぐに外へ遊びに行って、学校で宿題が出ればご飯を食べたあとに居間で一緒にやる。ロイは非番の日を出来るだけ土曜か日曜のどちらかに合わせているので、その日はたいてい朝から昼まで三時間ほどたっぷり錬金術の勉強をし、午後はまた勉強に戻ることもあれば近くの丘でピクニックをしたり図書館や美術館に連れて行ったりもする。ゆっくり休む暇もない一週間だが、充実しているので夜はよく眠れるし疲れはたまらない。毎週の休日を楽しみにしているロイにしても、こどもたちにそう告げるのは残念なことだった。
 せめて前もって言っておければよかったが、会うなら早いほうがいいという将軍の提案を受け入れたために、予定が今日の日に入ってしまった。
 こればかりはどうにもならず、沈む兄弟を置いて手早く支度を済ませたところでチャイムが鳴った。
 教えてもらったファニング家はロイの家からだとこどもの足でも充分行ける距離にあるが、弟夫婦が暴走しないように同行するという将軍が途中で車で拾ってくれると言っていたのでその車が来たのだろう。しかしてっきり将軍の直属の部下が運転手で来たのかと思っていたら、チャイムを鳴らしたのはハボックだった。
「お迎えにあがりました。よー、チビども」
「しょおい、ひさしぶりだな!」
「うでにぶらさがっていい?」
 玄関で立っているハボックは突進して来たこどもたちを両腕で受け止めると、二人まとめて抱え上げた。彼はまだ十代で若者らしい線の細さが少し残るが、相当の力持ちだ。
「しょおい、ちゅうさとでかけんの?」
「お出かけっていうかなー、今日の俺は運転手。中佐と将軍を人んちに送るのがお仕事」
「だれのおうち?」
「中佐より偉い将軍の親戚の――」
 ぺらぺらとこどもの質問に答えていたハボックは、ロイが一睨みすると慌てて口をつぐんだ。余計なことをしゃべるなと言うのだ。
 これから会いに行くのがどういう経緯であれ若い女性ということ、ましてや縁談だなんて、誰がこどもたちに教えたいものか。この先、万が一にもそんな話題が出たりしないように、部下にきっちり口止めをしておかなければいけない。
「では、行ってくるよ。いい子で待っていたらお土産を買ってくるからね」
 自分には片手を振って急き立てておいてこどもたちには甘い顔を見せるロイに、車に乗り込んでからハボックが「これだから親バカって」とあきれたように言ったが、どんなやり取りがあったか察している様子の将軍は「可愛い盛りのこどもを持つ親なんてそんなものだよ」と微笑んだ。


 帰りは送ってもらうから迎えは必要ないという将軍の言葉にハボックは「じゃあ、がんばってくださいねー、中佐」と面白そうに言い残して、来た道を戻って行った。あの車に乗ってそのまま帰りたいなあと恨めしく思う自分の情けなさに、ロイはため息をつく。しかしここで引き返すわけには行かない。二本の足を交互に動かすうちに、ファニング家の玄関はもう目の前だ。
 ノッカーを鳴らすと、執事が扉を開け、「ただいま、奥様を呼んで参りますので少々お待ちください」と二人を屋敷の中の一室に通した。それから少しもしないうちに、絨毯が吸い込みきれないほどの足音を立てて、四十代半ばと見受けられる女性が姿を見せた。
「お義兄さま、よくいらしてくださいました。こちらがあの……?」
「マスタング中佐だよ」
 楚々とした外見の割りに随分とせわしなく歩いてきた夫人は、まずは義兄の来訪を歓迎するとロイに視線を移した。
「ロイ・マスタングと申します。将軍にはいつもお世話になっております」
 堅苦しいのは好きではないと将軍から聞いていたので、軍服ではないし、軍人らしいぴしっとした敬礼はせず、失礼にならない程度の会釈をした。夫人はその仕草にほっとしたように笑みを浮かべる。
「カリー・ファニングと申します。突然のことでしたのに、いらしてくださって嬉しいわ。それで申し訳ないのですけれど、主人は仕事で本日は同席出来ませんの」
「いえ、お気になさらず」
「どうぞ、楽になさってくださいね。セバスチャン、ランディを呼んで来てちょうだい」
 夫人が部屋の隅に控えていた執事に命じると、執事は一礼してその場を去った。
 待っている間、夫人にお茶を勧められたが、漂ってくる香りにロイは内心で舌打ちをした。屋敷の敷地に入った途端に涼やかな空気に混じって流れてきたものと同じだ。屋敷の令嬢のミドルネームにもなっているローズ――薔薇の香り。ローズティーは苦手だ。
 しかし夫人の勧めを断ることも出来ず、一口だけ含んでカップを戻したところで、廊下をこちらに向かって歩いてくる気配を感じた。足音は耳を澄ませば微かに感じ取れる程度だ。
 執事の開けた扉から入って来た彼女は、写真よりも顔色が良く、足取りもしっかりしている。病弱というイメージとはほど遠い、ぴんと伸びた背筋が実際の身長よりも彼女を大きく見せていた。
「あなたが中佐……ロイ・マスタングさんなの」
 自己紹介もせず、値踏みするような不躾さは感じないまでも注意深くロイを見つめてきた彼女は、母親に促されてようやく足を揃えて会釈をした。
「ランディ=ローズ・ファニングです。本日は来てくださってありがとうございます」
「ロイ・マスタングです。こちらこそ、お招きいただいて光栄です」
 先ほど夫人に対してしたのと同じように、立ち上がって軽い会釈を返す。そしてロイは椅子に腰を下ろしたが、ランディはその場に立ったままだった。将軍の向かいの席が空いているが、座ろうとしない。
「お母様。わたくし、マスタングさんと二人きりでお話したいの。久しぶりにお庭に出たいわ。セバスチャン、東屋に紅茶をお願いね」
 彼女はそう言って、戸惑う母親となぜか困ったように目を細める将軍を置いて、ロイに「外に行きましょう」と声をかけた。