blind summer fish 33

 屋敷の裏手に案内された。庭に出ると緑のためか、温度が少し下がったような気がする。
 人の背の高さほどの生垣を過ぎると、そこは見事な薔薇園だった。深い紅が、鈍く濃い緑に映える。
 東屋を取り囲むように薔薇の茂みはしつらえられている。つまり周りは全てが薔薇であふれているが、特有のむせ返るような匂いはない。涼しい空気に少し香る程度だ。
 東屋の中央にはテーブルがあり、四つの椅子が置かれている。ロイはランディの向かいに座り、庭を眺めた。
「中佐は薔薇の匂いは苦手?」
「ええ、正直に申しますと、少し。一つ一つの花の香りが強いですからね、あまり多いと匂いがきつい。しかしここの薔薇は香りが抑えられていてちょうどいいですね」
「この品種は庭師に探してもらったのよ。わたくしも薔薇の匂いは少し苦手。薔薇の醍醐味は大輪の花弁と濃厚な香りだという人がいるけれど、派手な薔薇は好みではないわ。ここにあるものも、もう少し開けばすぐに切り取ってもらうつもり」
 三分咲きといったところの花は、確かに派手さとは無縁だった。
「先ほどはごめんなさいね。母がローズティーをお出ししたでしょう。執事が給仕をするときはいつもハーブティーの類は避けるのだけれど、今日はメイドが運んだようだから」
 苦手な人も多いのだからオーソドックスなものを出したほうがいいといつも執事にそれとなく言ってもらっているのだけれど、と彼女が吐いたため息は途中でくしゃみに変わった。
「あら、ごめんなさい」
「これは失礼。気温が下がっているのを忘れていました」
 慌ててロイが上着を脱ごうとすると、彼女は柔らかに手で制してロイの後ろに声をかけた。
「ありがとう、セバスチャン」
 小さなサイドテーブルにトレイを置いた執事は、彼女に咎めるような視線を向け、カーディガンを着せてストールをさらにかけた。
「お嬢様、ご自分のお身体をどうかお気にかけてください」
 白髪交じりの執事に叱られ、ランディはロイに肩をすくめてみせた。
「叱られちゃったわ」
 執事が給仕をして去ったあと、勧められた紅茶に口をつけたロイは、今度は顔をしかめることなく飲んだ。内心で、紅茶の淹れ方に関してはメリッサの方が若干上かな、という評点をつける。
「今回はごめんなさいね。わたくしがあなたにお会いしたいなどと言ったものだから、両親が騒ぎ立ててしまって。軽率な行動を反省しています」
「いえ。お気になさらず。でも一つお聞きしてよろしいですか?」
 いいわよ、と彼女の返答をもらってロイは思い切って尋ねた。
「どうして私なのですか?」
 なぜ、偶然会話に出ただけの己に興味を持たれたのかが不思議で、そのことも合わせてストレートに聞くと、彼女はくすくすと笑った。
「そうね。それはお話しなければならないわね」
 砂糖とミルクを入れてかき混ぜる指先が楽しそうに踊っている。
「中佐には可愛いお子さんたちがいらっしゃるでしょう」
「将軍に聞かれたんですか?」
 踊っていた指先が、一瞬止まった。
「いいえ。お子さんのことは聞いてないわ。窓から外を眺めていたら偶然見かけたのよ。近くのこどもと遊んでいたようで、とても賑やかで、楽しそうだと思って見ていたの」
 そうしたらそのうち『もうそろそろかえる』『まだいいじゃん』『ううん、ゆうごはんまでにかえるってちゅうさとやくそくしたから』というやり取りになって、二人は帰っていったのだ、と彼女は言った。
「以来、何度も見かけるようになって気になっていたの。ここを薔薇のおうちと呼んでいるようだと、庭師から聞いたわ」
 そういえば、そんな話を聞いたような気もする。確か、薔薇がいっぱいのお屋敷を見つけたから今度メリッサも一緒に見に行こう、と言っていた。まだつぼみだからもう少し経ってから行くと、きっと綺麗な花が見られるよ、と。ここの屋敷のことだったのか。
「聞いているとね、何度もあなたの名前が出てくるのよ。名前、というより階級ね。そこで不思議に思ったの。夕食を一緒に取ったり、いつも帰る時間を約束しているなら、一緒に住んでいる可能性が高いわよね。『ちゅうさ』はあの子たちの保護者だと考えられるわ。けれど『ちゅうさ』なのよ。お父さんでもおじさんでもお兄さんでもなく、『ちゅうさ』。とても慕われているようなのに、階級で呼ばれているのがとても気になったの」
 彼女は庭師に頼んで、二人に保護者はどんな人物なのかを聞こうと思ったのだと言う。そして名前は「ロイ・マスタング」、二人は錬金術の才能を見込まれて引き取られたのだとわかった。
「ロイ・マスタングといえば、焔の二つ名を持つ国家錬金術師。イシュヴァールの英雄。二十歳にしてすでに中佐の地位を得た出世頭。だから、手駒をそろえるために幼い子どもを養育しようとしているのかと最初は考えた」
 否定の声を上げかけたロイに、彼女は「失礼なことを考えてしまったわ」と苦笑を浮かべた。
「けれどね、そう考えるにはあの子たちがあまりに幸せそうで、すぐに考えを改めた。だって本当に慈しんで育てられてるのだと見てわかったのだもの」
 こどもたちは外から見て、そんなに幸せそうなのだろうか。幸せであってほしい、と思って一緒に暮らしてきた。育てているという意識はあまりないが、保護者として成長を見守って行くのが望みであり、途中で投げ出してはいけない義務だ。少しほっとした。
 それにしてもよく喋る。ロイがこっそり驚いていると、彼女は敏感に様子を察したようだった。
「あら、わたくしがぺらぺらと喋るのがそんなに不思議?」
 こう言うと失礼だろうかとは思ったが、彼女には遠慮を許さない雰囲気があったので素直に答える。
「貴方は人嫌いだと伺いましたので」
「ええ、そうよ。人を嫌いになりたいと思っている。本当の人嫌いの人が羨ましいわ」
「人を……嫌いになりたいのですか?」
「出来れば、この世にいる全ての人間を嫌いになりたい。けれど、それは到底わたくしには無理な話だわ。両親も、セバスチャンも、庭師のハリーも、唯一の友人も、みんな大好き。勿論、メイドたちもね。彼女たちは、こんなわたしにも、とても良くしてくれる。他所でわたくしの人嫌いの噂を流してくれて、おかげでご機嫌伺いの手紙も贈り物も来なくて、余計なおつきあいをしなくて済んでいるのよ。けれどずっと黙っていることは難しくて。ついついお喋りしてしまうの。あなたはわたくしがこんな女だと吹聴なさらないでしょう?」
「お約束します」
 この人は、とても環境に恵まれていて、そのありがたみを感じて理解しているのだ。ロイにもそれはわかったが、ただ一人、彼女の周りにいる中で、名前の挙がらなかった人物がいた。
 いいのよ、聞きたいことがおありならおっしゃって、と彼女は微笑む。
「将軍は。お好きではいらっしゃらないのですか」
 お名前が挙がりませんでしたので、と慌てて付け加えると、彼女は「あなたのことも好きになりそう」と、カップの底でもう冷めてしまった紅茶の残りを飲み干して、自嘲気味に呟いた。
「わたくしは伯父様のことが好きだったのよ。そうね、俗な言い方をすれば、こどもを生んでもいいくらい。そういう意味でね」