blind summer fish 34


 なんと返したらいいのか、わからない。女相手にはすらすらと美辞麗句、上官相手でもたいていはぺらぺらと適当な返答が流れ出す口は、今ばかりは適切な言葉を生み出してくれない。
 家族のように近しい者に対するものではなく、欲を伴うもの。それが彼女の将軍に対する愛だ。
「驚いたでしょう」
 彼女はロイが冷静なようでいて実は慌てふためいていることに気づいたのか、くすくすと笑った。
「なんと申し上げればよろしいのか……」
「言葉が見つからないのなら、下手なことは言わないで口を閉じているのが一番良いわ」
 その通りだ。
 彼女の言葉に甘えてロイは口をつぐんだ。
「わたくしが体が弱かったことはご存知でしょう?」
「今もまだそうでいらっしゃると思っていましたが」
「ひとより少し疲れやすい程度ね。もう、ほとんど普通のひとと同じ生活が出来るのよ」
 ロイが思っていたよりもずっと顔色のいい彼女は、よくこんなふうに東屋で薔薇を眺めたり、庭の中を散歩したりするのだろう。敷地の外には一歩も出ないまま。
「小さい頃は庭に出るのにも大騒ぎだったわ。まず、両親に止められて、それでも行きたいとだだをこねたら夏でも冬のようなコートを着せられて、帽子までかぶらされて。幾度かそんなことがあってから、庭に出るのも面倒になったの。毎回毎回大変な準備が繰り返されては、嫌になるのもしょうがないでしょう。そう思わないかしら?」
 同意を求められて、ロイは曖昧に頷いた。
「そして部屋に閉じこもりっきりになったわ。わたくしが部屋を移動しようとするとメイドがいちいちついてきてね。鬱陶しかったし、逆に申し訳なくも思った。だからずっとベッドの上から窓の外を眺めていたわ。一番外のよく見える部屋にしてもらって、一日中外を見ていた。同い年くらいの子が遊んでいて、時々大人に怒られたり、お菓子をもらったりして、わたしはこんなうちの中でじっとしていなければならないのにあの子たちはそんなこと知りもせずに楽しそうにして、ずるい、卑怯だ、不公平だ、と今思えばあの子たちは何も悪くないのに、恨めしく思っていたものだわ。けれどわたくしにも一つだけ楽しみがあったのよ。伯父様がいらっしゃるときだけは窓の外の子たちを恨む気持ちも消え去った。伯父様だけは、わたくしが庭で花を見たいというと、さっと毛布に包んで連れて行ってくれたの。両親は顔を赤くしたり青くしたりして大変だったけれどね。両親から見えないところでは、地面に下ろしてくれて二人で散歩をして、調子が良い日は少しだけ走ったりもした。みんなが過保護な中で、伯父様だけがわたくしを少しだけ体が弱い、けれどほとんど普通のこどもとして扱ってくださったの。普通であることにとても憧れていたわたくしには、伯父様が誰よりも優しくて大切な人に思えた。刷り込みだったのかもしれないわね。会うのが待ちきれなくて、約束を反故にされたときは数日寝込むほどに落ち込んだわ。忙しい方だから仕方ないのにね」
 あの方は今はだいぶ自由な時間を取れるようになったみたいね、と言う彼女に、ロイは今度は素直に頷いた。内乱で疲弊しきったイシュヴァールの民はすぐには報復の行動を起こせず、今は仮初の平和が東部には訪れている。残党狩りは行われているが、復興の意気に溢れているこの地では政府に不満を持つ輩も活動の土壌を削がれておとなしくしているため、軍部の行動もあまり活発ではない。司令官になったとはいえ、将軍の仕事は以前に比べてだいぶ減っているだろう。
「そのうちわたくしもこども扱いされることをもどかしく思う年になって、ちゃんと大人として扱ってちょうだい、と生意気にも言ったものよ。大人として扱えという希望自体が、自分が何よりもこどもだという証明なのにね。それでも伯父様はレディとして扱ってくださったわ。パーティーにはエスコートをしてくれて、家にいらっしゃるときの挨拶はまずわたくしの手にキスよ。くすぐったくて、とても気持ちよかった」
 微笑ましい風景だ。姪に甘い伯父。伯父に懐く姪。彼女の告白を先に聞いていなければ、の話だが。
「伯父様には奥様がいらしたのだけれど、わたくしが生まれる前に亡くなられて、それからはずっとお一人でいらっしゃるの。小さい頃のわたくしは、伯父様のお嫁さんになりたくて、大きくなったら結婚してと臆面もなくお願いしていたものだわ。それくらいならこどもの憧れで収まっていたのだけれどね。ある日いらした伯父様が香水の匂いをさせていて、すぐに誰か他の女性といたのだとわかったわ。わたくし以外の人間の匂いがついてしまうのがとても嫌だった。そのとき気づいてしまったのよ。この方を独占したいのだって」
 しかしそれは、こどもの強烈な我侭ではなかったのか。女として異性に持つ独占欲と錯覚してしまっただけなのではないか。面食らう告白につとめて冷静に接しようとしてロイはそんなことを考えたが、彼女は敏感にロイの思考を察したのか「勘違いではないのよ」と苦笑した。
「もし勘違いだとしてもね、思い込みというのは強いわ。周りがなんと思おうと、本人が信じること、それが真実よ。たとえ、ある男性が周りの誰から見てもその女性を好いていたとしても、男性本人が気づかなければ意味がないわ。その『好き』は気づかれないままだったらそのうち消えてなくなる」
 まだその経験がおありでないのなら、そのうちおわかりになるわ、と年上の女性は言った。
 そうなのだろうか。
 ロイには絶対に捨てることの出来ない思いがある。上を目指して、頂点に上るまでは決してくじけないことを誓った思いが。けれど、こと恋愛に関しては、彼女の言っていることはよくわからない。
「ごめんなさいね、こんな話を聞かせてしまって。でもそれだけわたくしが伯父様を愛していたことをわかっていてほしかったの」
 楽しかった頃を思い出す顔が、痛みをこらえるような表情に変わった。
 強烈な告白だったが、おそらくここからが本題だ。
「あれは、わたくしが十五のときだった」
 伯父様に美術館へ連れて行っていただいたの。その頃には伯父様は中将でいらしたかしら。地位が上がればそれだけ人の恨みや嫉みを買うものね、わたくしにはとても素晴らしくて潔白な方に見えていたものだけれど、伯父様を恨む人はいたのよ。
 美術館の帰り道、わたくしが道端の店に気を取られて伯父様から少し離れた瞬間だった。見知らぬ男がわたくしを人質に取ったの。捕まって頭に銃を突きつけられた。逃げるなんて思いもしなかった。怖かったわ。とても怖くて、少し離れたところで伯父様の顔を見ていることしか出来なかった。男は何かを叫んでいて、すぐそばで聞いていたのに、何を言っていたかはまったく思い出せなかったわ。伯父様はわたくしが見たことのない怖い表情をしていて、銃をつきつけられているよりも恐ろしかった。わたくしは震えていたけれど、男も震えていたわ。そして男は撃った。向かいの建物の壁をね。もう一発、同じようにして撃った。今度はガラスの割れる音がして、誰かの悲鳴が聞こえたわ。次はわたくしの番だと思った。男の銃が頭に当てられて、生まれて初めて、弱い体のままでいればよかったと後悔をした。弱いままならこんなふうに外に出ることもなくて、誰かに襲われることもなかったのに。銃が強く押し当てられて、もう駄目なのだと目を瞑ったときに――銃声がしたの。撃たれたのはわたくしのはずなのに熱くも痛くもなくて、頭を撃たれて神経が駄目になっているからわからないのかと思ったのに、いつまでも周りが見えるの。人も、家の壁も、伯父様も。わたくしを押さえつけていた男の力が抜けて、わたくしを取り残して男は倒れた。血が流れ出て、広がっていって、どこまで広がるのかしら。呆然と見ていて――気づいたのは病院のベッドの上。
 両親がわたくしよりもパニックになっていて、おかげでかえって冷静になってしまったわ。すぐにも家に帰りたかったのだけれど、絶対安静を言い渡されて、入院することになったの。一週間と言われて、その日はベッドでおとなしくしていたけれど、もう退屈で、数日前に体が弱いままでいればよかったなんて後悔したばかりなのに、懲りないのね。伯父様が護衛に付けてくださった部下の方をお供にして病院を探検よ。十五にもなって。
 色々なものを見たわ。手術のときに病人を運ぶ台があるでしょう。わたくしが見かけたときは、横たわっている人の顔に白い布がかけられていて、行き先は手術室ではなく霊安室なのだとわかったわ。ちょうどお医者さまに案内されてきた女性と小さな男の子がその台に縋り付いて泣き始めた。亡くなった方のご家族だったのね。気の毒に、と思っていたら、わたくしに付き添っていた伯父様の側近が教えてくれたわ。あの死体はわたくしを捕まえた男のものだと。
 わたくしを人質にして、男が伯父様に何を要求したのかはわからない。もしかしたら、わたくしを殺せば伯父様への恨みを晴らすことが出来ると思っただけなのかもしれない。なんて身勝手な男なのだろうと思っていたわ。人の命を奪うことがどれだけ罪深いことなのか、わかっていないのだと。
 けれど、その男にも家族がいて、その死を悼んでいた。彼は家族にとって大切な人間だった。ひょっとしたら男がわたくしにしたのと同じようなことを、伯父様が男にしていたのかもしれないと思ったわ。わたくしにはずっと優しい方だったけれど、軍人ですもの。戦争で人を傷つけ、殺すこともあったでしょう。そうでなければ出世出来ないものね。けれど、人を傷つける伯父様と、わたしの側にいる伯父様は同じ人であってそれぞれ別の世界にいる人だと思っていた。違ったのね。伯父様は、あの家族の大切な人の命を奪った。わたくしの頭を撫でてくれたあたたかい手は、誰かの血で染まったことのある手だったのよ。
 そのときようやく、わたくしは伯父様が人を殺すところを見てしまったのだ、と気づいたの。