blind summer fish 35

「けれど、彼を殺したのはわたくし」
 そんなことはない。ロイが反論すると、ランディはあっさりと頷いた。
「わかっているわ。直接手にかけたのは……伯父様で、事態を招いた大元の原因は殺された彼自身」
 そして遡れば、恨みの原因は将軍で、さらに遡れば将軍以外の誰か。因縁はいくつもの道のように張り巡らされ、どこが始まりとも終わりともわからない。人は道で、道は人だ。出発点がどこで到着点がどこにあるのか、考えるだけ無駄というもの。
 だから人は、目に見える、自分で縁をたどれるところまでで答えを見つけようとする。ロイ自身もそうだ。彼女もまた、然り。  
「わかっているのよ。でもね、わたくしがあの場にいなければ、何も起こらなかったかもしれない」
「それは仮定の話でしかありません。貴方がいようといまいと、その男は将軍の命を狙った」
「中佐。それも仮定の話でしかないわ。実際に起こってしまったことがただ一つの事実。そしてわたくしは、その事実を信じたくなくて、いつまでもこんな風に蒸し返して後悔し続けているの。笑える話ね、本当に」
「笑わなくてもよろしいでしょう。人間の命について思い悩むのは笑い事ではありません」
「手厳しいわ、あなたは」
 少し風が吹いた。薔薇の葉が擦れ、音を立てる。空を見れば、雲の動きが早くなった。
 ランディの茶色い髪は、写真で見た兄弟の母親を思わせた。緩やかに丸まって背に流れる。
「結局わたくしは、自分の罪から目を背けたいのか伯父様が怖いのかわからないのよ。だからわたくしは逃げたの」
 風に遊ばれ、ほつれた長い髪を、指先で梳いて整えた。何かをいとおしむような仕草だった。脳裏に浮かぶのはただ一人の姿だろう。
「触れたいのに、触れてほしくない。一緒にいたいのに、一緒にいたくない。離れたくないのに、離れていたい。答えは出ないわ。考えているうちにわからなくなった。怖い伯父様は嫌い。けれどわたくしを守ってくださった優しさは好き。ぴんと伸びた背筋が好き。わたくしに罪をつきつけてくる伯父様の存在は嫌い」
「だから、彼を嫌いになろうとしたのですか」
「何のためらいもなく好きと思えたのは過去のことよ」
 彼女にとって、「好き」の中はすべて好きという感情で満たされていなければならないのか。ほんの少しの「嫌い」もあってはならないのか。
「貴方はご自分に厳しい方だ」
「わたくしが?それは買いかぶりというものよ、マスタング中佐。本当に自分に厳しいのなら、負った罪を償っているはず。そうね、看護師になるとか孤児院で働くとか。自分に許された範囲の財力を活用する、というのも考えられるわ。でも、どれもわたくしはしたことがない」
 ただ、親しい人が傷つくのを見たくなくて、家の中に籠もって外界から目をそむけているだけ。
 彼女はそう思っている。けれど、それはいけないことだろうか。そんなに思い悩むほど。
 幼い頃いつまでもつかわからない体でただ生きてきた、日常の中でいつも死がすぐ傍にあった彼女が、外界に出て世の中をほとんど知らないまま目にした死は、簡単に乗り越えられるものではない。
 生まれてすぐに戦乱に放り出されて、それでも生き延びて来た人間が聞いたら鼻で笑うかもしれない。何を甘いことを言っている。死などいつでも隣にある。肩を並べて生きている。それをお前は同列に置くのか?
  けれど、目に見えない、体の中に死の原因が潜む状態に耐える日々はどれほど苦痛なことか。誰も失いたくないと怯え続け、愛する気持ちを――きっと彼女は今でも伯父を愛している――胸の中で否定してしまう彼女を、誰が否定出来るのか。
 人を守るために、人を殺す自分の方がずっと――
「矛盾しているわ」
 その矛盾を解くことがこれだけの年月を経ても出来ないのだ、彼女には。未だ。
 自身も矛盾を抱えるロイは、全てとは言わないまでも彼女の胸の内の幾ばくかは理解出来る。
「人間はそういう生き物です。割り切ることは難しい」
「貴方も割り切れないの?」
 だから、そんな、痛みに耐えるような目をしているの?
 雄弁な彼女の目は、やはり雄弁だ。ひたと見つめてくる視線が心の内に切り込んでくる。
 嫌な予感が、した。ちょうど日が翳る。
 この場から離れるべきだ。聞かれたくないことが、彼女の口からきっと。
「冷えてきました。中へ入りましょうか」
 ロイが立ち上がっても、目の前の女性は動かない。庭が、しんと静まった。
 彼女はずり落ちたストールを巻き直すと、姿勢を正した。
「わたくしはずっとあなたに聞きたかったの。イシュヴァールの英雄に」
 射抜くような強い視線が、まっすぐに向かってくる。痛い。とても。
 きっと彼女は言うのだ。脳裏に兄弟の姿が浮かぶ。
 ねえ、マスタング中佐。と、彼女は言った。
「どうしてあなたは、人を殺したその手で子どもに触れるの?」