blind summer fish 37

 え?
と、聞き返そうとしたロイにエドワードはなおも縋るようにして訴えた。
「ちゅうさがいうなら、オレ、リゼンブールにかえるから!」
 オレはどこにいってもいいから。
 リゼンブールにかえるから。
 帰る?リゼンブールに?アルフォンスを残して?
 私から離れて?
「何を、言っている……」
 突然の、予想もつかないエドワードの言葉に、ロイは面食らった。何がどうしてどうなったら、自分がこどもたちを手放すというのだろう。
「ちゅうさのいうこと、なんでもきくから!」
「だから、ちょっと待て、エドワード。とにかく落ち着いて」
 あんたが落ち着けよ、というハボックの呟きは、左耳から右耳へと綺麗に抜けていく。
 必死のエドワードと戸惑うロイのやり取りは、本人が意識しているよりも大きかったのか、玄関から執事が出てきて声をかけてきた。
「お嬢様が、込み入った話ならば門前ではなく中でいかが、と」
 白髪の執事は、そう言って屋敷への道を示す。
 ハボックが車で来ていたので、すぐに帰るからお気遣いなく、とロイが断ろうとしたところ、小さな影が執事の脇を抜けて行った。
「エドワード!?」
 驚いたロイの呼びかけにもとまることなく、幼い背中は玄関へとまっしぐらに駆けて行く。
「失礼」
 ロイは執事に言い置いて、そのあとを追った。びっくりするほどの速さで駆けるこどもに、距離の短さも手伝って、ロイがつかまえるより先にエドワードはホールにたどりついた。
 玄関の大きな扉を開けたところにはランディが背筋をすっと伸ばして立っていた。
「わたくしが長いおしゃべりにつきあわせてしまったから、お子さんが待ちきれなくて迎えに来てしまったのかしら」
 慌てるロイと、微笑むランディの二人を交互に見て、エドワードは何を思ったのか、ランディに近づいて彼女のスカートにしがみつくようにして見上げた。
「ちゅうさとけっこんするのは、おねえさん?オレのおとうと、すごくいいこだから、ちゅうさといっしょにかぞくにして!」
 幼いこどもの唐突な訴えにランディは目を丸くしたが、その手を振り払うことなく、その場にかがんでエドワードの視線の高さに合わせた。
「あなたがエドワードくんね?お兄ちゃんの方」
 うん、とエドワードは小さく頷く。
「わたくしは、ランディ=ローズ。弟さんはどうしたの?」
「アルはおうち。いきなりきて、ごめんなさい。でもオレ、どうしてもおねえさんにおねがいしたかったんだ」
「お願い……弟さんのことね」
 ランディはエドワードが言ったことと、今のこの状況をつきあわせて考えているようだった。少しのち、合点がいったのか、同じ高さにあるエドワードの頬を撫でて苦笑する。
「あのね、マスタング中佐を招いたのはお見合いをするためではないのよ。中佐に伺いたいことがあって、お茶につきあっていただいただけ。それをわたくしの両親が少し早合点をしてしまって……いえ、誤解をとかなかったわたくしがいけないのね。心配させてごめんなさいね」
「え?」
 予想外のことにぽかーんとして口をあんぐりあけたエドワードを見て、ロイもようやく事の真相を飲み込めた。
「ハボック、あとで覚えてろよ……」
 小声で部下を罵ると、玄関の外にいて聞こえるはずのないハボックがびくっと肩を竦めるのが見えた。本当に、あとで覚えていろ。
 エドワードはハボックから自分が見合いに行くことを聞いて、それで慌ててやってきたのだろう。あの必死な様子は、それだけエドワードが思いつめていたということだ。
 再会してからのエドワードの様子がおかしかった理由はここにある。
「おいで、エドワード」
 ロイがかがんで手招くと、エドワードは少しためらって、それでもとことことやって来た。
「いきなり来たからびっくりしたよ」
「いそがなきゃっておもって、ハボックじゅんいにたのんでつれてきてもらった。ちゅうさがけっこんしたら、オレたちじゃまになるだろ?でもけっこんするひとがやさしいひとだったら、いっしょにかぞくにしてくれるかなっておもって、いっしょうけんめいおねがいしたらきいてくれるかなっておもったんだ」
 邪魔になんかするわけがない。例えこの先結婚したとしても。こどもたちを邪魔にするような女性と結婚なぞ出来るはずがない。
「お前たちが邪魔だなんて私は考えたこともないよ。お前たちが私のことを嫌になったら別だが、私から離すなどということは絶対にない。一体どうしてそんなことを……」
「だって、オレ、おじさんがそういってたのきいたから、ちゅうさのやくにたてなかったら、だめなんだっておもって、ずっと……っ」
 どこの馬鹿がそんなことを言ったんだ、と憤慨したロイが、つとめて冷静にその「おじさん」が誰なのかを問うと、エドワードはリゼンブールですぐ近くの家に住んでいるおじさんだと答えた。リゼンブールへ出発する前日、ピナコと喋っているのを聞いたのだという。
「ばっちゃんはそんなことないっていってたけど、でもちゅうさがオレたちのとこきたの、オレたちが錬金術、つかえるからだろ?だから、えっと、じょしゅとか、そういうのにするためかなって」
 全く余計なことを言う馬鹿が、とんだ誤解を招いてくれたものだ、と一応相手はエドワードの知り合いなので胸の内で罵倒するにとどめた。
「確かにきっかけはお前の言うとおりだし、才能を伸ばしてやりたいと思ってもいるけれどね、お前たちがどんな道を選んでも、私はずっと保護者だし、父親と思ってほしいと願っているよ」
「うん、ちゅうさ、アルがいなくなったとき、すごいさがしてくれて、……ちゅうさなら、アルをちゃんとだいじにしてくれ、るって、おもって」
 探しただけでなく叱ってくれたのがすごく嬉しかったのだと幼いこどもは言った。本気で叱ってくれる大人は、それだけこどもを大事に思っていることの表れだから。
「ごめっ、なさい、おれちゅうさのこと、っ……」
 とうとう両の目からぽろぽろこぼれだした涙が、エドワードの頬を伝って顎の先から絨毯に染み込んでいく。ここまできてまだ嗚咽をこらえるエドワードが痛々しくて、まったく気づかなかった自分が腹立たしくて、ロイは涙を流す幼いこどもを抱きしめた。泣き止まないエドワードのおでこに口づけ、まぶたに口づけ、頬にキスをし、自然とそのまま、嗚咽を漏らす口をそっとキスで塞ぐ。
 体温の高いこどものおでこも頬も口も、やっぱり温かかった。
 信じてもらえなかったことはさみしいし自分が情けないけれど、アルフォンスを想うエドワードの気持ちはそれだけ強いのだ。
 すぐ間近でおでこをこつんと合わせて見つめると、エドワードはきょとんとしてロイを見つめ返す。その顔が、少しずつゆるんで、笑顔に変わった。
「母さんみたい。あったかい」
「よかった、泣きやんでくれて。お前が泣くと私も悲しくなるから」
「ちゅうさも?」
「そう。だから笑っていてほしい」
「……やっぱり母さんみたいだ!」
 にこにことしているエドワードの鼻をかんでやって、ふと顔を上げると、ここは人様のお家だった。うっかり失念してしまっていたけれど。
「申し訳ありません」
 騒がせてしまったことを謝るロイをランディは静かに制した。
「わたくしが紛らわしいことをしてしまったのがいけないのよ。中佐は気になさらないで結構。もちろん、エド。あなたもね」
 ついでとばかりにもういっぱいお茶をどうかと誘いを受けたが、それは丁重に辞退させてもらった。これ以上迷惑をかけ手間をかけさせるのはしのびない。というか、自分の不徳を晒した相手とまた向かい合わせで座るのは今は勘弁してほしい。
「今度は遊びに来てちょうだい。アルくんも一緒にね」
「あ、あの、えっと、ごめんなさい。オレ……」
「いいのよ。気にしないで。だから本当に、遊びに来てちょうだいね。庭の外からより、中から見たほうが薔薇は美しく見えるわ」
 恐縮するロイと恥ずかしげなエドワードにランディは強引に詰め寄って約束を取り付けると、満足そうにもう一度エドワードの頭を撫でた。