blind summer fish 38

 焦げ臭い。鼻をつく脂の匂いが全身にまとわりついている。
 度重なる爆発と銃声で耳鳴りのような状態となり、頭の中では常に何かがわめいている。その音にすべてを委ねたら楽になれるだろうか。理性を放棄して、何も考えずにただ人を殺せるなら。
 すでに狂った仲間もいた。笑みすら浮かべて、どこから敵が来るともしれない街中へ、上官の命令も無視して突っ込んでいく。止める間もなく、その身体は銃弾に倒れていった。ああ、彼は楽になれたのだ。ようやく。
 パチンと指を擦った。他人事のように感じていた爆発は、自分が起こしたものだった。仲間の死体も巻き込んで焔がはぜる。
 この街にはどれだけの人が住んで、どれだけの人が生きていたのだろう。きっと、親がいて、子がいて、年老いた男と女がいて、産声をあげたばかりの赤ん坊がいた。兄弟げんかをするこどもがいて、ののしりあう夫婦もいて、人を殺す輩もいた。それでも社会があった。生があった。
 それらすべてが、たった一度の焔の錬成で、瓦礫の山と化す。命あるものの営みを、死の世界へと送り出す。
 焔の熱が押し寄せて、ふらふらと燃え盛る瓦礫へ足を踏み出した。途端、パンッと渇いた音がして足元に銃弾が跳ねた。後ろから。振り返ると片腕とみなす彼女が、泣きそうな目をして銃を携えていた。
『あなたが死ぬのは、今じゃありません』
 昨日はあんなにしっかりと引き金にかけられていた彼女の指が、今は震えている。たった一日で、人は強くも弱くもなる。それでもまだ生きているのは、彼女自身の意志と、もしいるならば神の意思だ。
 銃はいいですよ。人を殺す感触がありませんから。
 そう言っていた。彼女が銃を選んだのも、自分がこの錬成方法を選んだのも、根っこは一緒だった。同じだね、と言うと、彼女は悲しそうな、けれど固い意志を持ってゆっくりと頷いていた。
『わかっている。私はまだ死ねない』
 果たさなければならない目的のために。
 数え切れないほどの人の命を奪っても。
 けれど、爆風と硝煙にまみれたこの地で、いつまで正気を保っていられるのだろう。早く戻りたい。人のいる世界へ。戦わなくていい世界へ。
 ――こんなに酷いものとは思わなかったんだ。
 静かに指先を擦る。遠くで爆音がする。風に乗って、人の焼ける匂いが運ばれてくる。この手で今、人を殺した。肉を断つ感触はなくとも、人を殺した感触は、この身体にまざまざと。
 外気が高熱をはらんで身体全体にまとわりつく。熱い。熱い。焼ける。焦げる――
『……さ!』
 大丈夫だよ、ホークアイ准尉。まだ大丈夫だ。まだ。
『ちゅうさ!』
 ……中佐?誰のことだ。
『ちゅうさ!』

「ちゅうさ!」
 耳元でしていたのは幼いこどもの声だった。ロイが飛び起きると、そこは焔も熱もない、暗い部屋だった。
「夢か……」
 そうだ。ここは我が家だ。
 ファニング家を辞してから、帰る道々ハボックから事情を聴き、うっかり口を滑らせてしまったと吐いたハボックを締め上げて、いつものように夕食を取り、こどもたちを寝かしつけ、自室に入った。あの焔は夢だったのだ。また、あの夢。
「ちゅうさ、だいじょうぶ?こわいゆめ、みたのか?」
 そのこどもは、ベッドに半分乗り上げて、ロイの頬をぺたぺたとさすった。あの気持ちが悪い、恐怖を感じる熱とはまったく違う、あたたかい手だった。
「エドワード……」
 ロイが呟くと、目に涙を浮かべたこどもが不安そうにロイを見上げた。
「ちゅうさ、すごいうなってて、あせかいてて、おこさなくちゃっておもって」
「うん……君の声がしたよ。ありがとう、エドワード」
 目を焼くような焔の中から引き戻してくれた声の主は、ロイの言葉にようやくほっとしたように肩の力を抜いた。
「ところでこんな夜中にどうしたんだい?」
 隣の部屋に聴こえるくらいにひどくうなされていたのか、と危惧したロイに、エドワードは俯いてぼそぼそと呟く。
「……なんでもない」
「何でもないことないだろう」
「……こわいゆめみて、アルはぐっすりねてたからおこせなくて、このじかんならまだちゅうさがおきてるかもしれないっておもったんだ」
 俯いたままで恥ずかしそうにしているのは、お兄ちゃんなのに怖い夢くらいで眠れなくなるなんて、というプライドがあるからか。
「一緒に寝るかい?」
 少し間を置いて、エドワードは頷いた。
 おいで、と毛布をめくって小さなこどもを招くと、幼子はスリッパをぬいでもそもそとベッドにもぐりこんで、ロイにぴたりとくっついた。
 くっつかれて気づいたのだが、ロイ自身の身体は汗で濡れていて、寝間着すらも湿っている。着替えたほうがよさそうだ。
「エドワード。着替えるからちょっとだけ手を放してくれないか」
 エドワードは少し迷ったそぶりでロイの寝間着をぎゅっと握っていたが、しばらくしてそっと放した。頼りない小さな手が、たまらなく愛しい。
「すぐ戻るから、おとなしく待っておいで」
 このベッドにこどもたちが寝たのはほんの数ヶ月前のことだ。アルフォンスがいなくなって見つかった日の夜、三人で並んで寝て以来。エドワード一人がちょこんと収まっているベッドは、とても広く見えた。ぽっかりと空いたスペースがさみしくなるくらいに。
 ロイは手早く着替えると、エドワードの隣に滑り込んだ。ロイが抱き寄せるでもなく、エドワードの方からくっついてくる。
「どんな夢を見たんだい?」
「お、おばけがでてくるゆめっ」
 よっぽど怖かったのか、ロイの寝間着を握り締める小さな手が震えている。
 けれど、エドワードには失礼な話だが、ロイはなんとなく可笑しかった。というのも、錬金術師は科学者で、お化けなんていう非現実的なものを恐れるのがそぐわないような気がしたからだ。
「わらうな!」
「ああ、ごめんごめん。悪気はないんだ。ただ、科学を勉強している君が、非科学的なものを怖がるのが意外だったんだよ」
「それとこれとはちがうとおもうぞ。よのなかに、科学だけじゃせつめいできないことなんていっぱいある」
「そうだね、私の考えが単純過ぎた」
 どんなお化けが出てきたのか、興味を覚えて聞いてみると、エドワードはそれはそれは恐ろしい顔でジェスチャーも交えて説明してくれた。形状のみならず、その特性までも。
 本人曰く、こないだ読んだ本に出てきた昔の獣と、他の本に出てきた地域にまつわる怪談話が合わさってこうなったのだそうだ。怖い怖いと言いながら、細かく分析してしまう辺りがやはり面白い。
 ひとしきり説明してくれたあと、エドワードはロイを見上げて首を傾げた。
「ところで、ちゅうさはどんなゆめみたんだ?」
 気になるのも当然だ。相当うなされていたようだから。
 しかし、やはり当然のように夢の内容を言えるはずもなく、ロイは「昔嫌なことがちょっとあってね、その夢を見たんだ」と曖昧に濁した。
「そんなゆめ、もうみなくてすむといいね」
「いや、これから先も何度も見るよ。見ることが私には必要だから」
 言うつもりはなかったのに、うっかり口を滑らせた。しかし、エドワードはその「嫌なこと」が何なのかを聞くこともなければ、なんで見ることが必要なのかも問いただすことはなかった。こどもは直感する生き物だ。それが何であるかわからないときに、触れない優しさを持っている。
 そして。
「じゃあ、ちゅうさがうなされてたらオレがおこしてやる」
 強い言葉。
 どうして、ほしいときにほしいものをくれるのか。こどもというのは。それとも、エドワードの本質なのか。
「ありがとう、エドワード」
 やわらかい幼子の頬を両手で包むと、ロイはその額に優しく口づけた。
 人の体温がこんなにも心地いいものであったことを、ずっと忘れていた気がする。欲望を満足させるためではない、ただ安心するために人を抱きしめるなんて、こどもたちが来るまでずいぶんと長い間、していなかった。
「父さんって、こういうかんじなのかな」
 うとうとしはじめたエドワードの甘い声が、ロイの胸に響いた。
「よくはわからないけれど、私はお前たちの父親になれたらいいと思う」
「ありがと、ちゅうさ」
 それきりエドワードは稚い寝息をたて、ロイは小さな身体を包み込んで自分も眠りについた。