blind summer fish 39

 視察に行った先の診療所で、ロイは思いがけない人物を見かけた。
 長い間戦乱のさなかにあって、医療の充実を図るべく、東部にはあちこちに低所得者用の診療所が設けられている。というのは、国が社会保障に目を向けていることを民衆にアピールするためであって、わずかでも国に対する不満を減らそうとする手段の一つでしかなく、ましてや真剣に国民の健康を考えての措置とは到底言えるものではなかった。
 ゆえに、診療所の数は地域の面積からいったら微々たるもので、おまけにイーストシティとその周辺に点在するだけなので、その恩恵にあずかることの出来る人間は、東部全体の人口からすれば限りなく少なかった。それでも少しは不満解消に役立っているようだ。
 無料ではないのは、職につかずぶらぶらしているだけの宿無しの住処となってしまうのを危惧してのことだが、結局はツケをためる者が多く、有名無実化しているというのが現状だった。
 そのような診療所の治安を守るため、又そこそこ機能しているかを監視するのは当方司令部の仕事だ。二ヶ月に一度行われる視察は今回ロイにお鉢が回ってきて、部下を数名引き連れてやって来たのだが、見覚えのある女性の後姿に、ロイは首を傾げた。今は高い位置で結い上げられ小さくまとめられている茶色い髪は、紐解けば緩やかに流れるだろう。姿勢の良い身体に纏う衣服は、彼女が普段身につけているものに比べて桁違いに質の劣るものだ。それでも、汚らしさは感じられない。
 どうしてこのようなところにいるのだろう。
 見合い未遂という小さな騒動があってから数ヶ月が経ち、その間ロイは見合い相手に招かれて何度も彼女の家を訪れた。もちろん、こどもたちとメリッサを伴って。
 エドワードは最初は押しかけたときのことを忘れられずに恥ずかしがっていたが、すぐにアルフォンスとともに庭を駆け回り、庭師とお喋りし、執事の運んできたお菓子をつまみ、彼女に学校の話をしていた。メリッサはメリッサで執事のセバスチャンと気が合って、やれあの薔薇だどうだ、何産の茶葉はどこどこで手に入るなどと話がはずみ、それを見た執事の仕える相手は「あら、セバスチャンがあんなに話すのは珍しいこと」と、使用人が客と話し込むことをとがめもせずに眺めていた。
 その間、このような話は一度も彼女の口から出なかったのだ。診療所で働くという話は。
「ランディ」
 ざわざわと患者がざわめく中、それほど大きくもないロイの声は、ちゃんと彼女の耳に届いた。
 彼女は患者に包帯を巻く手を止めて振り返る。
「あら、マスタング中佐」
 少し待っていらして、と言ってランディは手早く包帯を巻き終えると患者に何かを告げ、混み合う待合室の人の間を縫ってロイのすぐ目の前に姿を現した。
「先生に診てもらいにいらしたのではないわね。視察かしら?」
「ええ。今回は私の当番ですので」
「先生を呼んできましょうか?それとも、中へいらっしゃる?」
「視察ですので内部を見て回らなければなりません。出来れば案内していただきたい」
「わかりました。ではこちらへ」
 ランディはロイの後ろへ控えていたロイの部下たちに会釈をし、身を翻した。

 部下の一部は外で待機させておき、とりあえずロイはホークアイとブレダの両名を同行させることにした。
 廊下は狭く、ところどころに背もたれのない長椅子があるために歩きづらい。少し横幅のあるブレダはすれ違う患者が来るたびに、壁とくっつかなければならなかった。
「狭いな」
 ロイの呟きにホークアイが反応し、手元のメモに書きとめる。
 廊下が狭い。イコール、何かあったときの脱出が難しくなる。
 又、緊急時の患者の搬入も、入り口から手術室が遠いうえに廊下が狭ければ、命取りになりかねない。
 ここに来る前に寄った診療所は比較的新しく作られたせいか、その点は配慮がなされており、多少注射器や医薬品の減りが激しい以外は特に問題はなかった。
 それに比べてこれだ。廊下は曲がりくねって、それほど広くない敷地にあるはずの建物なのに、すでに三回ほど右折左折している。時折、廊下の電気も壊れていた。
 前の視察担当者は何をやっていたのか。
 答えは簡単。何もしなかったのだ。今回の視察の際、ロイに回されてきた資料にはどの診療所も特に問題なし、とあった。担当者がこの有様を無かったものとしたのは明白だ。
 思わず舌打ちをすると、「中佐」と後ろから部下にとがめられ、前ではランディが笑っていた。
「なかなか素敵な有様でしょう?」
 正しく言えば「ひどい有様」だ。それを「素敵」などと言い換えてしまう彼女に、ブレダが小声で「さすが、中佐のお見合い相手」と言うのが聞こえた。
 いや、だから見合いは未遂――未遂というより最初から無かったものだというのに。
 あの一件はハボックからあっという間になじみの部下二人に、一部脚色されて捻じ曲がった事実として伝わったため(あとでちゃんと訂正はした)、ランディの存在自体はブレダもよく知っている。しかし会うのはこれが初めてで、彼自身が彼女をどんな人物であるか観察をしているのはロイにもわかった。とりあえず、第一印象は合格のようだ。
 ブレダにしても、ロイの周囲の人間を一から十まで見定めようとしているのではない。ただ、いつもの恋人か恋人候補と違って、これからも多少なりともロイに関わりそうな人物であるだけに、警戒心を怠らないべきだと判断したのだろう。わずらわしいと思ったことはない。この慎重さが好ましくてブレダを他所から引き抜いて来たのだから。
「着きましたわ。――先生、東方司令部のマスタング中佐をお連れしました」
 しばらくしてノックに返事があった。
「入ってもらってー」
 ガラガラ、キーと嫌な音を立てて開いた扉の向こうには、意外なほど若い人物が座っていた。キャスターのついた椅子のまま、机の反対側から近づいてくる。
「あれまー、若いですな」
「ああ、もっとジジイかと思ってた」
 ブレダとロイがひそひそとやり取りを交わす間に、ロイの後ろに控えていたホークアイがすらすらと口上を述べた。
「東方司令部です。本日は視察に参りました。出来るだけ診療の邪魔にならないようにしますが、患者数や医療品、経理の把握のために質問をすることもありますのでご協力ください」
「こちらこそよろしくおねがいしますねー。いやー、前に来た人はぱーっと外から見て僕を呼び出しててきとーな質問して帰っちゃったんですよねえ。なんかやる気全然無しって感じで」
 話し出した彼に、軍人三人はあっけに取られた。
 その話し方が。なんかやる気全然無しって感じで。