blind summer fish 4


 すぐに兄弟を連れ帰るわけにもいかないので、今日はこれで一旦イーストシティに帰り、準備を整えてから迎えに来ることにし、ロイは暇を告げようと立ち上がった。
 しかし椅子を下りた兄弟が駆け寄ってきて、ロイを引っ張る。
「もうかえるのか?」
「父さんのしょさいを見てきませんか?」
 困惑するロイに助け舟を出したのはまたもピナコだった。
「軍務じゃないってことは休暇取ってきたんだろ?急いで帰らなきゃならないのかい?」
「いえ。それほど急ぐ必要はありませんが」
「だったら、ちびどもにつきあっておやり。これから一緒に暮らすんだ。どんな子たちかあんたの目でちゃんと見ていきな」
 ピナコに背中を押され、兄弟に引っ張られ、ロイはここからすぐだというエルリック家へと向かった。


 兄弟は母親を亡くしてからずっとピナコの家で世話になっているという話だったが、毎日この家に戻って来ては、出来る範囲で床を掃いたり窓を拭いたりしているのだという。窓も開けて換気をしているせいか、埃っぽさはなかった。ただ、「ここだよ」と言ってエドワードが示したドアを開けると、中からは本に混じって埃の匂いがした。これはこどもたちがこの部屋の掃除をさぼっているというよりも、何年も何年も大量の本が住んでいたからだろう。
「ここがあのホーエンハイムの……」
 一歩部屋に入って、ロイの足はぴたりと止まった。ぐるりと部屋を見渡す。壁面に並べられた本棚の中にはぎっしりと古めかしい背表紙が詰め込まれている。収まりきらなくて床に直接積み上げられた本の端々から、メモ書きのようなものがはみでていた。
  来るまではちょっと覗くだけのつもりだった。本人に会えなければ書斎を見てもたいして意味はないと思っていた。けれど、実際見てみれば、この部屋の持つ空気に圧倒された。主を失って何年も経つ部屋を、この本たちは守っている。
 見上げれば天井に錬成陣が描き付けられていた。よく見れば本棚の隙間から覗いた壁にも、床にも、振り返ればドアにも描かれている。そのいくつかはロイが以前にホーエンハイムの著書で見たものと同じだった。
 ホーエンハイム。彼の著書を数冊持っている。というより、その数冊が、ホーエンハイムが書いた本のすべてだった。しかしほんの数冊でも彼が類まれな錬金術師であることは充分にわかる。そして、その評価をくだせるのは、一定以上の技量を持った錬金術師のみだった。暗号解読の技術、錬成の過程を理解する能力。両方を持ち合わせて初めて、彼の著書を読むことができるのだ。ロイにはその能力があった。
 もちろん、それほどの評価を得ているからには国家錬金術師の誘いがなかったわけではない。しかしホーエンハイムは誘いをあっさり断り、どこかの田舎へ引っ込んだとロイは耳にしたことがあった。それから彼の消息は誰にも知られないところとなり、その名も少しずつ薄れていったのだ。ロイも世間とまた同じだった。兄弟からの手紙を受け取っても、彼の名をつぶやくだけで手紙を捨ててしまいそうになったくらいに。
 薄れたその名と著書の内容が、この空気の中で一気に蘇ってくる。
 呆けたように立ち止まっていた足を、どうにか一歩踏み出した。壁に描かれた錬成陣を手でなぞる。側の書き付けを見るに、空気中の分子を操って水を作り出す錬成陣のようだった。どこかに焔を作り出す陣もあるのだろう。
「これ、おやじがかいた本」
 小さな腕でよろよろと抱えてきた一冊の本を、エドワードはロイにぶつけるようにして差し出した。押し付けた、といったほうが正しい。
「私も持っているよ。国家錬金術師の資格を取る前に偶然読んだんだ。資格を取ってから、他の本も探して読んだ」
 ロイが重い本を受け取って開くと、兄弟は顔を見合わせて、にーっと笑った。
「おやじがかいた本はぜんぶでなんさつでしょーかっ?」
「三冊」
「ブーッ」
 兄弟はロイの答えにだめ出しをすると、順番に本のタイトルを挙げた。
「錬金術における等価交換の要素」
「台所から始まった錬金術」
「錬成陣の歴史」
「植物の育て方」
「……あ、愛するトリシャへ……」
 最後の一冊をエドワードは不満そうに言ったが、ロイはそれどころではなかった。書名は全部で五つ。記憶にない書名が二つ。
「その、『植物の育て方』と『愛するトリシャへ』というのは」
「父さんが、かいたけどほかの人にはみせなかった本」
 こっちだよ、と袖を引っぱるアルフォンスにつられて、ロイはある本棚の前に立った。ひときわ分厚い背表紙に手書きの文字で「愛するトリシャへ」と書名が綴られている。取り出して冒頭に目を通してみると、彼の妻であり兄弟の母であるトリシャ・エルリックへの想いが記されていた。はっきり言って、恥ずかしい。これが暗号であることはわかるのだが、とにかく文面が恥ずかしい。こんなことを思いつくほどに彼は詩人の資質もあったのだろうか。
 呆然としてしまったロイを兄弟は楽しそうに笑い、「それ、持ってっていいよ」と気軽に言った。
「そう言ってくれるのはありがたいが、これはかなりの稀少本だよ。他人にほいほい貸すものじゃない」
「あんた、たにんじゃないだろ?な、アル」
「うん。ますたんぐさんはボクたちのせんせいになるんでしょ?だからいいんだよ」
 それならば、とロイはありがたく、自分の蔵書にない二冊の本を借り受けることにした。