blind summer fish 40

 普段着に白衣を着た男の髪は肩の辺りまである縮れ毛で、およそ医者というイメージからは遠い風体だった。縁の太いフレームの眼鏡の奥で、これまたやる気なさそうな目が眠そうにこちらを見た。
「あー、自己紹介しなくちゃですねえ。僕はここで医者をやってるリーランド・テイラーといいます。リーランドでいいですよー。これから昼の休憩入るとこなんで、質問はいまのうちにどうぞー」
 いま中尉は後ろで眉をひそめてんだろうなあとロイは思った。いちいち語尾の伸びる話し方は、きびきびはっきりくっきりとした言動を好む彼女にとっては苛立つものに違いない。
 それでも私情を仕事に挟まないホークアイは、いつもと変わらない調子で言った。
「では、まず医療品の在庫と経理状況を知りたいので帳簿を見せてください」
「帳簿ー……ってあったっけ?」
 あったっけ?って言われても。
 この人、いったいどうしたらいいんだろう、これで医者か?医者なのか?と三人が不安に思っていると横から助け舟が出された。
「わたくしがこちらに来てからのものならありますわ。それ以前のものは伝票やメモが日付も相手先もばらばらで今まとめている最中ですけれど」
 ランディが示した棚にある段ボールは全部で五個あり、中をのぞいてみると一個はきちんと整理されインデックスが付けられていたが、残りは無造作に放り込まれた紙の束だった。
 なんていい加減なんだ。
 三人はまたも同じ感想を抱くと同時に前任者を内心で激しく罵った。この駄目な経理でよくOKを出したものだ。まったく。
 確か、クローズといったか。
 ロイとはあまり仲の良くない相手なので面倒なことになりそうだが仕方がない。
 ここは一つ、丁寧に調べて詳細な報告書を上げてやろう。と、思ったのも三人同時だった。

 早速、ロイとブレダは他の部下と手分けして、老朽化した建物の状態を見て回ることにし、ホークアイは面積だけは無駄に広い診察室の片隅で帳簿や伝票と顔をつきあわせることになった。ランディが記入したという帳簿を開いて、ホークアイは目を丸くした。
「ごめんなさいね、読みにくくて」
「いえ……」
 とは言ったものの、渡された帳簿にある数字はともかくとして、字は読みにくいことこの上ない。
 いかにも丁寧な字を書きそうな相手を目の前に、ホークアイは言葉を濁した。まさか、すごく読みにくいですこれは何て書いてあるんです?とは言い難い。
 簡単に下手だと言い切ってしまうには妙な味のある癖の強い字の羅列は、何ページも続いている。
 まあ、どうにかなるだろう。何事も慣れるものだというし。
 ホークアイは深呼吸をして気合を入れると、あらためて帳簿に向き直った。
 時々ランディを呼び止めては二、三質問をし、また黙々とページを手繰る。低所得者用とは名ばかりで実質ほとんど無料診療所と化していて財源は国からの補助金でまかなわれており、さらにはその補助金も思った額よりずっと少ないにも関わらず、ランディの話に寄ると医薬品の類に困ったことはないという。薬品の仕入先はいつも決まっていて、ホークアイには聞き覚えのないところばかりだった。東方の中心であるイーストシティには人口も多ければ店も多いからそれも当然だろう。
 仕入先は決まってはいるものの、それぞれから納入される量は少ない。その代わり、店はかなり多岐に渡っている。しかもなぜか安い。ホークアイの薬品に関する知識は一般の軍人が有するレベルであって、専門的なものにはほど遠い。それでもいくつか知っている薬があったので自分の記憶とつき合わせてみると、どうも通常の卸価格よりも二割から三割程度安いようだ。
 聞いてみようと思って周りを見渡したが、ランディは外へ出たようで見当たらない。室内にいるのは自分の他は医者だけだ。
「テイラーさん、少しお聞きしたいことがあるのですが」
 休憩中で遅い昼食にパンをかじっていたリーランドは、口をもぐもぐさせたまま答えた。
「リーランドでいいって言ったじゃないですかー」
「お食事中に申し訳ありませんでした。食べ終わるまで待ちます」
「いいですよー、なんですか?」
 うっかり駄目なタイミングで聞いてしまった。口に物が入っている間は喋るな、というのが日常生活でのホークアイの信条だ。そっちがよくてもこっちがよろしくない。
 しかしリーランドはホークアイの心中など察してくれるはずもなく、お食事中のまま回転イスごと寄ってきた。
 こうなっては仕方が無い。さっさと質問を済ませて食事に戻ってもらったほうがいい。
「テイラーさん、帳簿を見ていて疑問に思ったことがあります。こちらでは私の記憶する薬の価格よりだいぶ安い価格で仕入れているようですが、何か特別なツテでもあるんでしょうか」
「だからリーランドでいいですってばー」
「少尉さんがお困りですわよ、先生」
 ありがとう助け舟。
 片手に紙袋、もう片方の手にカップを二つ載せたトレイを持ったランディが現れ、両方を机の上に置くと、カップの一つをホークアイに差し出す。
「よろしかったらどうぞ」
 勤務中だから断るべきだが、なんとなく型どおりの答えを返すのがためらわれてホークアイが珍しくも一瞬迷うと、ランディは背中を押すように言った。
「皆さんにお出ししましたの。休憩を取ってリラックスされたほうが後の作業の能率も上がるというものです」
 にっこりと微笑まれ、ホークアイはありがたくお茶をいただくことにした。
「お代わりもありますから、おっしゃってくださいね。それと、先ほどの件ですけれど、薬品の卸売りをしている方々に先生のお知り合いが多くいらっしゃって、余った在庫を安く分けていただいていますの。もちろん、在庫には偏りがありますから、いつも同じ種類を同じ数だけ仕入れるというわけにはいきませんけれど、どうにかやりくりしています」
 つまり、仕入先が多いので、あっちで駄目ならこっちで、こっちが駄目ならあっちで、という具合に最低限の数は確保しているという次第だった。
「先生は顔が広くていらっしゃいますのよ」
「やだなー、ランディ。僕の顔はそんなに広くないって。むしろ狭いよ」
「顔の面積の話をしているのではありませんわ」
「もちろん、わかってるさ」
 いいところのお嬢様とふざけた男の会話は、それぞれ本気なんだか冗談なんだかわからなかった。
 そのうち昼休みも終わり、リーランドは診察を再開した。ホークアイはそのまま同じ室内にいたので、自然と彼と患者のやり取りが耳に入る。
 いい加減そうに見えて、診察は案外と丁寧だ。口調は相変わらずいらいらとさせられてしまうものだが、生活ぶりを気遣うような言葉と、野菜を安く仕入れるツテを教えている。薬品と同様、他の卸売り業者や商店にも顔見知りが多いらしい。
 単に宿と食事が目当てではない、口コミでしっかりと診療を求めてやってくる患者もいるようだから腕も確かと見ていい。
 『人は見かけによらない』の典型だとホークアイは帳簿を閉じて思った。