blind summer fish 42

 翌朝、出勤したロイは廊下で将軍とばったり会った。
 ランディの気持ちを知って以来、面と向かって話すのは少々気まずい。週一のチェスの対戦も、ある意味で拷問だ。将軍は少女時代の彼女の気持ちがただの憧れではなかったことを知っているのだろうか。そして、今もまた、将軍に気持ちを残したままであることに気づいているのだろうか。数ヶ月かけても、まだ判断をしかねている。
 判断がついたからといって、何を出来るわけでもないのだが。
「おはようございます」
「おはよう、マスタングくん。昨日はうちの姪が働いている診療所へ視察に行ったそうだね」
「ええ。今日もこれから参ります。建物がだいぶ老朽化しているので思ったよりも時間がかかりそうですよ」
 将軍は、ふむと頷いてロイの後ろを見やると、幾分声をひそめた。
「前任者はだいぶいい加減な調査をしたようだ」
 ぱっとひらめいたロイは、後ろを振り返らず、「困ったものです」と頷く。
「容器ばかりが立派で、中身が役立たずの典型ですね」
「両方駄目であるよりはましだと思うがね」
 そのときちょうど、話題にのぼっていた人物がロイを追い越しかけて、さも今気づいたように立ち止まった。わざとらしい仕草は、嫌味というよりむしろ阿呆だ。
 彼は将軍に心のこもっていない朝の挨拶をし、次にロイに向かって「おはよう、マスタングくん」と言って寄越した。
 クローズ中佐。階級は同じだが、彼は自分とロイの年齢差が気に食わないらしい。階級が同じであれば年功序列であるべきだと信じているのだろう。ことあるごとに、こちらを若造扱いする。ロイにとって心情的には、へこませておいても差し支えない相手だった。
 そんな心の内を押し殺して、表面上はにこやかに愛想を振りまく。
「おはようございます、クローズ中佐」
「容器がどうとかと聞こえましたが、何の話をされていたんですかねえ」
 ロイの愛想はまるっきり無視して、クローズは将軍に尋ねた。口調が無礼なのには理由がある。彼のうしろには中央の将官がいて、直に彼は中央に舞い戻る予定になっているからだ。
 上役は将軍と同じ階級だが、たとえ司令官といっても地方の一首長だ。中央に留まっているお偉方とでは周りに及ぼす権力に雲泥の差がある。クローズにとって、東方司令部の長など、さして敬うべき相手ではないわけだ。
「最近司令部内にネズミが多く発生しているだろう?それでこの間から駆除剤を使ってるんだ。容器はいかにもネズミ退治に効きそうだったのに、一向にそのネズミが減らなくてね。これまでの経験から、数ヶ月も経てば減ることはわかっているんだが」
「ほう、ネズミが。それは困ったことですな。ネコを放してみてはいかがです?」
 ネズミがげっ歯類のネズミのことであると微塵も疑わず、彼は人を小馬鹿にしたようにアドバイスを与えると、すたすたと歩き去った。
 充分に距離が離れたところで、ロイは肩を竦めた。
「ぜひ、ネコになりたいものですよ」
「君がなりたいのなら、私は止めないよ」
「では、なってみましょうか。ネコというより狗ですが」
 自嘲気味に言ったロイに、将軍は苦笑とも笑みともつかない、曖昧な表情を浮かべた。
「私も同じだ」


 昨日と同じ道を昨日より少し多い人数で辿って着いた診療所で、ロイは思いがけない人物を見かけた。
 いや、思いがけないというほどのことではない。ただ、昨日の今日で、と思うのだ。
「中佐ー!」
 二人分のこどもの声が、診療所の軒先に響き渡った。
 確かに、ランディが医者の助手として勤め始めたことは夕食のときに話した。遊びに来てもいいと言われたことも。次のロイの休みに連れて行くことを約束して、話は終わったはずだった。
 ロイは駆けて来たエドワードとアルフォンスを中腰で抱きとめると、いつ来たのかと尋ねた。
「あのね、ごはんたべて、中佐がおしごといったあと!」
 窓から姿が見えたから走ってきたのだと兄弟はにっこり笑う。
「メリッサは?」
「メリッサなら中だよ。ね、兄さん」
「まちあいしつで、ざっか屋さんのおかみさんと話してる」
 口々に教えてくれたこどもたちは、行こう行こうとロイの手を引っ張る。そこに、「エド!アル!」と二人に呼びかける声がした。鈴を転がすような、女の子の声だ。
「いきなり走ってくんだもの、びっくりしたわ」
 息を弾ませる少女は、二人を軽くにらんだあと、ロイを見上げた。
 兄弟よりも薄い金色の髪は肩を越して背中につくかつかないか、見上げる瞳は青。どことなく、リゼンブールで出会ったロックベル家の娘と似ている。彼女と違うのは、初見でこちらに対して少しも物怖じしないところだ。
 街中で軍人など見慣れているのだろう。ロイの後ろに並ぶ軍人たちに怯えるふうでもない。
「パパなら中にいますから、どうぞ入ってください」
 しっかりした物言いは、エドワードと同い年であるにもかかわらず、一つ二つ年上のように感じさせる。
「お名前を聞いてもいいかな。私はロイ・マスタング。この子たちの保護者だ」
「リンドベル・テイラーです。リンでもリンディでもいいわ、マスタング中佐」
 この年頃は男子よりも女子の方が成長が早いというが、それを目の当たりにしているようだった。