blind summer fish 50

「ひょっとしてあの人、軍曹が別んとこの隊の所属ってこと、忘れてんじゃないですかね」
「かろうじて覚えていると思うわ。今頃頭の中では、彼の上司をどう言いくるめるか、色々考えているでしょう」
「あれ?でも軍曹って異動でどこ行ったんだ?」
 アルフォンスが迷子になった件以来、軍曹とは何かとこまごまとした縁があって、「うちに欲しいな。そうは思わないかね、ホークアイ少尉」などと上司が言っていたことをホークアイは思い出した。
 片手を親指から順番に折って数える。親指で一人目、人差し指で二人目、中指で三人目――三本目で止まった。
「あの人には手駒が少ないわ。……手駒と言うと、怒られるのだけれど」
「三本ってことは、俺とブレダも入ってんスか」
「そのつもりがなかったらごめんなさい。忘れてちょうだい」
「いいえ、カウントしといてください。ああいう人にはそうそう巡り合えそうにないですからね」
 まだ本題を切り出していないのか、上司と軍曹からは楽しそうな笑い声が聞こえる。時折、「エドワードが」とか「はしご」といった単語が出てくるので、きっとまた養い子の自慢話でもしているのだろう。錬金術を学んだことがないものにとっては、ある物から別の物を錬成出来るだけですごいと思ってしまうから、鉛筆であろうとはしごであろうと変わりはないのに。錬金術師である上司にはその違いがわからないらしい。
 困ったように上司を見つめるホークアイにハボックが言う。
「一つ聞いていいですか?」
 何だろうと思いつつ彼女が「いいわよ、どうぞ」と答えると部下は真面目くさった顔つきになった。
 そうしていれば、割と精悍に見えるのだ、この部下は。
「少尉はどうして中佐についてくことにしたんですか?」
 世間話の一環ではない。こんなところで気軽に答えたい内容でも、練兵場の真ん中で、煙草を咥えている部下と立ちっぱなしでするような話でもない。
 ハボックが真剣に答えを求めていることは充分に伝わってくるし、「ノーコメント」と言えるような雰囲気ではなかった。
「守りたい、と思ったからよ」
 けれど、ホークアイは答えをはぐらかす。今はまだ、あの人以外に教えることは出来ない。
 いざというときには盾になる。命はあの人に預けた。
 自分が倒れたときは、代わりにあの人の盾になって、と隣にいる男やブレダにはまだ言えなかった。まだ足りない。仲間ではあるけれど。三本の指に数えてしまったけれど。
 あともう少し。もう少し何かを共有すれば。そうしたらきっと言える。教えられる。この決意を。
「まあ、まだしょうがないっすね。すんません、こんなこと聞いちゃって」
 ホークアイの心の中を読んだみたいに苦笑したハボックは、逆に同じことを聞きたくて、でも自分がはぐらかしたのだから聞いてはいけないと迷うホークアイの反応にも気づいたようだった。どうして、そんなに人の感情に聡いのだろう。
「俺は中佐に感謝してます。世話んなったし。その恩返しっつーか……それだけじゃないですけど。なんつーか、ぴりぴりしてんなあと思って」
 いつも苛立っているということだろうか。
「全部俺が背負ってやる、みたいな。オーラ出てましたよ、オーラ」
「オーラ?」
「もちろん目には見えませんがね。例えて言うならってことです。……少尉とおんなじこと言ってたんですよ、中佐は。守りたいものがあるって。でもそれが何かは教えてくれなかったけどね、そのとき俺はその対象が特定の誰かじゃなくて、全部なんだって思ったんですよ。そりゃあ広すぎる、無理だ、この人はなんてバカなんだろうって驚きました。人一人の手で守れるのなんて、たかがしれてますからね」
 ほら、こんなふうに、とハボックは両腕を大きく広げてみせた。
「ま、そんな感じで、一人よりは二人、二人よりは三人のほうが腕も広げられるだろうと、そう思ったんで、少しでも手伝いになれば、ぴりぴりしてんのも治るかなーと」

 場を和ませようとしてか、ハボックはへらへらと表情を崩した。さっき感じた精悍さは欠片もない。
「でもガキどもが来てから、いい具合に力が抜けましたね。身近に守る対象がいるってのは大きいですよ。子を持つ親は何よりも強いですからね。まあ、中佐の場合、可愛がりすぎて鬱陶しいときもありますが」
 ハボックは一通り、普段の上司の子煩悩ぶりをこきおろすと、咥えていただけで火をつけていなかった煙草をポケットにねじ込んだ。
「少尉もね。中佐とおんなじだと思いますよ。ガキどもに懐かれて、悪い気はしないでしょ?俺は好きですよ、今の少尉」
「それは告白と受け取ってもいいのかしら」
 和やかになった空気の中で、ホークアイが珍しく茶目っ気を出して聞いてみると、ハボックは途端にあたふたした。
「え?そう受け取ってくれるんですか?」
「Yes、と答えられなくてもいいのなら」
「うっわ、即答っすか。あー、そりゃへこむなあ……」
 ねじこんだばかりの煙草を取り出して、苦笑いをしながら口に咥える。が、ライターを探そうとはしなかった。口元と手で一本もてあそぶだけで、吸おうとはしない。煙草に触れていることが、彼なりの安定剤なのかもしれない、とふと思った。
 つまり、冗談だと思った告白は、案外と本気だったということだ。自分の、どこがいいのかはわからないけれど。
「仲間を、そういう対象で見ることはないわ」
「……そうですか」
 相変わらず微笑ましくも鬱陶しいロイの話はまだ長々と続いているらしい。上司をほっぽって先に戻るわけにもいかず、ホークアイもハボックも、少し離れたところで並んで立ったままだ。
「ところで貴方、私のどこがいいの?」
「……振った相手にそれを聞きますか、貴女は」
 ハボックの右手がポケットをさまよい始めた。多分、ライターを探しているのだろう。
 聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「ごめんなさい。私は少しデリカシーに欠けると士官学校時代に言われたことがあったのだけれど。聞かない方がよかったかしら」
「あー、そうですねー……そのうち、そのうち言えるようになったら教えますよ」
 探し当てたライターをカチッと鳴らしたハボックは、逡巡するように何度も鳴らし、結局煙草に火はつけなかった。
「そうだわ。もう一つあった」
 ホークアイはハボックが制するより早く、理由を口にしていた。
「料理が上手な人を恋人にすると太ってしまうから」
「少尉……そういう理由は言ってくれなくていいです……」
 情けない顔でハボックはうなだれたが、ホークアイの中でハボックに対する見方が変わったのは確かだった。

 ごめんなさい、ともう一度謝って、かえってハボックを落ち込ませたホークアイは、同じように数メートル先で肩を落とす上司を見て、間抜けな自分に舌打ちした。
 軍曹を借りられるはずがないのだ。先の異動で、ベルベリー曹隊はそのままの所属に留まったが、軍曹は別の隊に配属された。
 彼の上司は、東方司令部のネズミこと、ダグラス・クローズなのだから。