blind summer fish 52

 翌朝、どんよりと肩を落として出勤したロイが、ホークアイから渡された書類に目を通し終わった頃、タガートからの呼び出しがかかった。
「なんだなんだ、不景気な面しやがって」
 顔をあわせての第一声がそれだ。
「……おはようございます、ドクター・タガート」
「朝っぱらからそんな面見せられて可哀想だぜ。もちろん、俺がな。こちとら徹夜なんだ。せめて明るい華やかな美女の姿でも拝みたいもんだね」
「……じゃあ、華やかにしてみせましょうか」
 やけになってにっこりと笑って見せると、タガートは心底嫌そうに「気持ち悪ぃな。男の笑顔なんぞ見たくねえや。そもそも貴様の顔を見たくねえ」と目をそむけた。
「何があったか知らねえが、お前さんの部下の方がよっぽど大変だったろうよ。なんせ徹夜だからな」
 促されてタガートの自室の隅を見ると、大きな丸い物体がさして毛足の長くない絨毯の上にごろっと転がっている。毛布の下から、恨めしげなくぐもった声がした。
「中佐ー……これ、残業手当、出るんでしょうねえ……?」
 短く赤い髪がもっそりと覗いて、声と同じように恨めしげな眼差しが突き刺さってくる。
 結局追加のお手伝いさんを送ってやることが出来なかったので、ブレダは一人でタガートの助手を務める羽目になり、相当こきつかわれたのだろう、ぐったりとしている。せめてソファーで眠らせてもらえばいいのに、と思ったが、二人掛けと一人用のソファーのうち一つは積み上げられたファイルと本に占拠されていた。残りの一つは今タガートが座っている。
「あ、ああ。もちろんだとも。申請しておこう」
 理由は適当にでっちあげて、と心の中で呟き、再びもごもご言い出したブレダに「寝てていいぞ」と声をかけ、ロイは壁際に置かれていた椅子を持ってきてそこに座った。少し待って、ブレダのいびきが聞こえて彼が寝入ったのを確認してから話を切り出す。
「早く結果がほしいとは言いましたが、またえらく早いですね」
「物が物だからな」
 タガートは姿勢を正し、一語一語、己にも言い聞かせるかのように問いを発した。
「さて、二択だ。結果について聞くか、聞かないか。面倒に巻き込まれたくないのなら、あれは単なる浮浪者の行き倒れとして処理しろ」
「すでに面倒だとは思っていますよ。巻き込まれる、巻き込まれないどころの話じゃありません。今、小さな事故として処理しても、いずれどこかで大きな騒ぎにならないとも限らない」
「では、覚悟はいいな?」
 見据えるタガートに、ロイは静かに頷いた。
「勿論」
「これを見てくれ」
 タガートが無造作に放って寄越した紙切れには数字やらグラフやらが書かれている。
「薬の成分だ。死体からも検出された」
 ロイはまるきりの専門外というわけではないので、とりあえず目を通したが時間がかかる。一通り読み終わったあと、タガートに確認を求めた。
「フィッタに近いようですね。しかし微妙に違う」
 正式名称は「Float in the Air」頭文字を取ってFITA――フィッタ、あるいはフィタと呼ばれる。文字通り、浮遊する心地を味わえる作用を持ち、先の内乱でも兵士たちの間に出回った物だ。軍が非公式で配布する物とは出所が異なるそれは、痛覚を麻痺させる点では同じだが、必要な感覚までも奪うほどに強力で、フィッタを使用した兵士は、無理な戦闘行為を起こして派手に散るか、そうでなくとも副作用又は依存症の発症により命を落としたという。
「お前さん、NDという名前を聞いたことはないか?」
「ND?いえ、初めて聞きました」
 記憶にない名詞にロイが首を横に振ると、タガートは今度は赤のファイルを差し出した。
「NDの資料だ。NDというのはな、No Dependenceの略だよ」
「依存性がない?まさか……!」
 ロイは慌ててファイルを開き、中の資料を手繰った。
 インデックスの付いた所だと言われて、そのページをめくる。統計と題された表に、性別、年齢、身体的特徴、持病の有無などがずらりと並び、プラスマイナスの記号が振られていた。圧倒的にマイナスが多い。おそらく、陰性ということだろう。
「本当に、このNDであると?」
「間違いねえよ。俺が間違えるはずがねえんだ」
 そうだ。昨日の、心当たりがある口ぶり。そしてこの資料。
 問い返すのははばかられた。タガートの顔が、苦渋に満ちていた。
「言い訳にもならねえが、直接開発チームに参加していたわけじゃない。世話んなってた教授がチームの一員でな、極秘の計画つっても漏れはあるもんだ。現にこうして、俺の手元に資料があるくらいだからな」
 通常、新薬が開発されると、動物実験を経て又末期の患者に承諾を得て投与し、ある程度の安全が確認されてから市場に出される。しかし麻薬の場合は、中間の工程が変わる。
 市場での人体実験。
 前線の兵士に投与する前に、その機能を調査しようというのだ。対象の人数は多ければ多いほどいい。命が費える間近の患者はそう多くなく、自然と実験の対象は市場の最下層へと向けられる。歓楽街に隣接する貧民窟。薬によって殺されても、誰も文句は言えず、また言わない世界だ。ただ、死んだように生きるだけの、人間がいる。
 しかし、外の世界のことだ。軍内部の、研究所での実験のようには行かない。貧民窟には、人の目と耳と口がある。情報を、一部のみで独占することは不可能だ。
「とんでもないもんを作り出しちまったって、教授は後悔していた。それで資料を持ち出して、貧民窟に行って調べられるだけ調べた。結果が、今お前の持っているファイルというわけだ」
 教授のその後を聞くと、短く「死んだ」とだけ返ってきた。
「フィッタを元にして作られたのがNDだ。フィッタは依存性が強くてな、せっかく命が助かっても禁断症状に苛まれて常習しちまって、おまけに作用が強いもんだからそう身体は長くもたずに死んじまう。しかし、兵士に特攻させるってえなら、これほど便利なもんはねえ。そこで考えたやつがいるのさ。これの依存性が無くなれば、間を置いて支給して、少しでも長く兵士をこきつかえるってな。おまけに身体への影響も少ないって触れ込みさ」
「……関与していたのは軍上層部ですか?」
「慌てるな。関与していたのはごく一部だ」
 息を呑むロイに、タガートは落ち着かせるように間を置く。
「開発を命令した奴も死んだ。皮肉なことに、孫に囲まれて老衰でな」
 下についていた野郎は今はセントラルで将軍閣下なんて呼ばれてるよ、と呟いた。
「……ここまで教えていただいて今更という気もしますが、この資料は私が見てもよろしかったのでしょうか。そのセントラルにいる将軍が健在ならば、口封じということも――」
「それに関してはお前さんの腕にかかってんだ。NDとは関係ないことでちょっとごたごたがあってな、名前を変えたからお前さんが大々的に資料をばらまかない限り、俺にはたどりつかねえだろ。失踪したことになってるからな」
「ごたごたについてはお尋ねしないほうがよろしいんでしょうね」
「そうしてくれると助かるね」
 深刻な話のさなか、わずかに明るい空気が流れる。ああ、女性関係なんだな、とロイはタガートの様子からしてぴんと来たのだ。が、その空気もすぐに元に戻る。
「……ずっと伏せておこうと思った。公表しても仕方ねえってな。教授は死んじまったし、開発を命じた張本人も死んだし、俺は名前を変えてマックス・タガートになった。もう薬も出回んねえようになったし、墓の中まで持って行こうと思ってたよ」
 己が卑怯な人間だと思っているのだろう。タガートは顔を伏せて苦悩する姿を見られまいと手で覆う。
 しかし、一概にタガートが卑怯だと他人が言えるのか。一個人が、たったこれだけの資料を盾に、民衆の支援もなく、幅広い権力を持つ軍人にどうして立ち向かえるというのか。
 こうして、再びNDが舞い戻ってきた今、伏せていた事実を表に出してくれただけで充分だ。
「ありがとうございます、ドクター」
「……そりゃ、思ってもみなかったセリフだな、中佐」
 白い粉を包んだ赤い紙を手に取ると、タガートはロイにファイルの最後を開くように言った。最後のページは透明なポケットになっていて、中に一枚の紙が入っている。
「それは当時のもんだ。色が変わってないだろ。この薬が危険ってことさ」
 ただの赤い紙が、まがまがしい紅へと変わっていったような気がした。
「市場に出すときに、既存の物と区別をつけるために紙に色をつけたんだ。新しい薬にはよくあることだな。たいていの場合は、しばらくすると普通の紙になって大量に売りさばかれる。しかしこいつは……」
 そこでタガートは一旦話すのを止め、自らを嘲笑うかのように、テーブルの上の本を蹴り飛ばした。
「薬の売人て奴ぁ、変に律儀なのが多くてな。末端のこすい野郎は別だが、新薬がやばいもんだってわかると、市場に出た頃と同じ紙のままにしとくんだよ。これはやばい薬だ、ってわかるようにな」
 売人は何も自らが薬が好きというわけではない。売買は金のためだ。彼らは売り先を確保するために、与える薬の量を制御する術を心得ている。出来るだけ長く、多く、金を払ってもらえるように。搾り取れるように。危険だと判断すれば、供給をストップする。市場が荒れては、自身の生活に響くからだ。
 しかし、末端へ行けば行くほど、売人自身が薬に染まり、自らの薬代を稼ぐために誰彼構わず売りさばくようになる。そうなってはもう、供給量の制御などに考えが及ぶはずもない。客から求められれば求められるだけ与え、手元に無くなれば他所から取る。
「甘い匂いは、成分の一部に花の香料が含まれているせいもあるが、わざとその香料を多くしている。包み紙と一緒だよ。紙を開けば匂いがする。一発で、NDだってわかるようにしてんのさ」
 そしてその甘い匂いでさえ、彼らには警告になり得ない。向かう先は泥沼だ。
「しかし、ドクター。依存性が無いのなら、ある程度が供給されれば需要は収まるのでは?」
「わからんか?……いや、わからんということは、幸せなことかもしれねえな」
 意味深長な口ぶりに軽い苛立ちを覚えたが、ロイはタガートが話を続けるのを黙って待った。時計の針が動くカチカチという音と、ブレダのいびきだけが室内に響いた。
「今のアメストリスでは、一般に依存性は身体の欲求の度合いで判断される。だがな、依存性はそれだけじゃ計れねえんだ。病は気からって言うだろ。おんなじだよ。気持ちが求めちまったら、意味がねえんだ。依存性がゼロってのは、ある意味、普通の薬より性質が悪ぃ。人間、すぐやめられると思うと、かえってやめられねえもんよ。ずるずる引きずっちまう」
 その辺りは、医学が進んでるシンへ行けば、すでに身体的依存、精神的依存の両方から判断され規制をする動きがあるらしいとタガートは言う。
「あくまでも、しようってだけで、規制は出来てないと聞いたがな。少なくとも、医学に関してはアメストリスよりシンの方がずっと先を行っている。隣国アエルゴも進んでいるといえば進んでいる。悪い方へな。NDの成分の一部はアエルゴ産の花だ」
「では、今回出回ったものにはアエルゴが絡んでいると?」
「断言は出来ない。というより、その可能性は薄いだろう。大量に捌くなら組織立った売人の手を要するが、奴らはNDからは手を引いたはずだ。小物相手にちまちま流すほど、アエルゴも暇じゃねえだろ」
 一応この事は頭の片隅に留め置くとして、ロイはまだ肝心なことを聞いていないことに気づいた。
「先ほど、身体への影響も少ないとおっしゃいましたが、それならなぜそこまで危険視されたんでしょうか。依存性が無いことの怖さはわかりましたが、いまいち納得出来ません」
「一番の問題はそこさ。影響が少ないなんて嘘っぱちだったってこった」
「とおっしゃいますと?」
「確かに動物実験じゃあ内臓、呼吸器系、脳、神経ともに影響は微少。ほとんどゼロ判定してもいいような数値が出た。が、ネズミと人間じゃあ大きな違いがあった」
 これだよ、これ、とタガートはグラスをあおる真似をした。
「人間はアルコールを呑むだろ。NDは単体で摂取すればネズミのときと影響は変わらんが、アルコールと一緒に取ると、精神に混乱を来たす。悪くすれば、大暴れして人に怪我させて、あとは自傷だ。さっき話した、『やめられない』ってのが大きな意味を持つ。長い間摂取すれば、駄目だ危ないって言われててもアルコールを一緒に呑んじまうこともあるだろ。あとは――」
「周りを巻き込んで派手に自殺、というわけですか。フィッタより性質が悪い」
 二人のため息は、相変わらず聞こえてくるブレダのいびきにかき消される。
 いびき。
 ロイはわずかに眉をひそめた。いつの間にか、いびきがやけに等間隔になっている。いつからだろう。いびきの主は起きているのだ。
 確かにタガートの助手兼護衛兼監視役として残したが、薬の化学式を理解するほど化学の分野に明るいとは思わなかったから、あまりにまずい結果が出たとなれば、そのことは伏せておくつもりだった。
「ブレダ准尉、目が覚めているなら起きたまえ」
 毛布の小山がもそもそと動き、オレンジがかった赤い頭がぬっと出た。
「おはよーございます、中佐、ドクター・タガート」
「いつから聞いていたのかね?」
「えーと……最初っから?」
 なんてこった、とロイは天井を見上げた。最初からいびきは演技だったのだ。すっかりだまされてしまった。
「いい部下じゃねえか。敵とも味方ともわかんねえ相手と上司を二人っきりにしとけねえってことだろ?」
 なあ、ブレダ准尉よお?とにやにやしながら声をかけるタガートに、ブレダはしょんぼりした目で「お二人の声がでかくてうるさかったんでよく眠れなかったんですよ」とほらを吹いた。
「でもってマスタング中佐、お前さんのほうは、やばいことには准尉を巻き込めねえってこった。俺の監視役にした時点で、そりゃ無理ってもんだろ」
「ちょっ、中佐!それ、本当ですか!?いまさら!?」
「あ、いや、落ち着きたまえ、ブレダ准尉――」
「俺の徹夜した労力を返してください!」
「だから、ちょっと、落ち着いてくれ、頼むから」
「ホークアイ少尉に訴えてやる!」
「あ、え、少尉に!?そ、それはやめたまえやめてくれ頼むお願いします!」
 徹夜に加え、緊張に包まれながら聞き耳を立てていたことでネジが緩んだのか、跳ね起きたブレダが詰め寄ってくる。体格の差はいかんともしがたく、ロイは椅子から落ちそうになりながらブレダを押し戻し、落ち着け落ち着けと繰り返した。
「とにかく、ここに座りたまえ」
 座っていた椅子をブレダに提供し、自分の分はまた壁際から取ってくる。
「ドクター……監視役ということに、お気づきだったんですね」
「気づかねえほうがどうかしてるぜ。で?まだこの准尉さんを俺につけるつもりかい?」
「はい。ですが、監視役ではなく護衛として。これから私が動くことによって、ドクターの過去が調べられて身に危険が迫るかもしれません。後ほど別の人間を寄越します。事情が事情ですから、表立って警護するというわけにはいきませんが」
「そんなに簡単に俺を信用していいのか?」
「詳しい情報と言いにくいことまで教えてくださいましたし、この研究所所属になってからの貴方には特に懸念すべき点は見当たりません。研究結果は素晴らしいものでした。賞賛に値する」
「俺の経歴を調べたのか、昨日の今日で。手回しがいいな」
「有能な副官がおりますので」
 誇らしげなロイの言葉に部下の恨みがましい声がかぶった。
「中佐ー……それ早く言ってくださいよー。この人信用出来るんなら、寝ててよかったんじゃないですか!眠いの我慢してがんばったのに!」
「すまない、准尉。戻ったらすぐに交代の者を寄越すから」
「うおー!やっぱ少尉に訴えてやるー!!」
 ブレダの絶叫が、タガートの部屋に響いた。