blind summer fish 54

「一旦、中央に連絡を取って協議します。おそらく、こちらと情報部とで連携して今回の件に当たることとなりますので、よろしくお願いいたします」
 ヒューズがそう締めくくってロイをともなって執務室を辞したのは、兄弟がメリッサお手製のおやつを食べる時刻に近い、三時頃のことだった。ロイの勤務は予定ではあと二時間。
 その間ヒューズにどうするつもりなのかと問うと、彼は「とりあえず上司と相談して、その後は……ドクター・タガートに会ってみたいが、さすがにそれはまずいよなあ」と苦笑した。
 表向きは単なる伝言板であるヒューズが、いきなり何も面識のないタガートを訪ねるのは不自然だ。
「とりあえずそのドクターに貰ったっつーファイルを見たいな。どっか、鍵かかる部屋はないか?」
「私の部屋で見ればいい。鍵もかかるし、そもそも許可なしに入ってくる輩もいない」
「嫌だな。お前、俺に仕事手伝わせる気だろう。そんなことをしてる暇なんてない」
「失礼な。自分の仕事は自分でするよ」
 言い切ってはみたものの、自室の机を目にしたロイは、情けない顔つきでヒューズに懇願の眼差しを向けた。
「ロイ……自分の仕事は自分で、って言ったろーが」
 ヒューズは早々にロイを見捨てて、来客用ソファーに陣取った。こどもみたいにテーブルをばんばん叩いてファイルを要求する。
 ロイが内線でホークアイに短く一言「持ってきてくれ」と告げると、一分もしないうちに有能な副官がやってきて、ヒューズの前に赤いファイルといくつか紙の束を置いた。
「こちらはドクター・タガートの経歴とその他特記事項、そしてこちらは診療所の見取り図と検死結果になります」
 彼女は書類一つ一つを指し示し、丁寧に説明を加えていく。その間ロイは嫌々ながら机の上に出来た山の攻略に取り掛かった。何年やっても、この書類仕事というのはつまらない。慣れはしたが、慣れれば慣れるほどつまらなくなる。ここにエドワードとアルフォンスがいればやる気が出るのになあ、と書類にペンを走らせるかたわら、いらない紙の裏を落書きに有効活用している。ああでも、アルフォンスはここに来た途端、ホークアイ少尉の傍にぴったりくっついて離れなくなるんだろうなあ、と考えてため息をついた。
 エドワードには今嫌われているようなので、司令部に来てもハボックやブレダのところでかまってもらうのかもしれない。嫌い。本当に胸にずっしりくる言葉だ。タガートに「不景気な面」と評されるのも当然だとロイは思って、もう一度ため息をついた。
「中佐、サボってないで仕事してください」
 言葉でぴしりとロイを打ち据えるその態度は、いつもと変わらない。理由は言っていないとはいえ、落ち込んでいるのはきっとわかるんだから少しは優しい言葉の一つや二つ、かけてくれてもいいじゃないかと思うのは、甘い考えだろうか。
 ロイは幾分ゆがんだ署名をし終えると、決裁済みの山に乗せ、未処理の山から一束引き抜いて、首をかしげた。  
「ホークアイ少尉。なんだかだいぶ先の締め切りの仕事まであるみたいなんだが」
「ええ。最大で二週間先のものを用意しました。今回の件がどういう方向へ向かうかわかりませんから。いざというとき、つまらない書類決裁に追われて動けない、なんてことになったら困るでしょう」
 確かに。正論だ。
 最悪、決裁を諦めて締め切り破りをするしかなくなるが、そうなっては嫌味ったらしくみみっちい案件を回してくる上の連中に、やいのやいの言われるのは目に見えている。でも、出来ることなら、もう少し優しさがほしい。
「締め切りが近いものから積んでいってくれるとありがたいんだが」
「手前にあるのから順に、絶対に締め切りを破れない書類になっています。奥にあるものほど、多少なら便宜をはかってくれる部署への提出物となっております」
 つまり、少しくらい遅れても勘弁してくれる相手方であると。
 ホークアイ少尉がその手の融通を利かせるのは珍しいことだったが、どちらにせよ、この山を地道に消化していくほかはない。本当に、優しさがほしい。

 ある意味殺伐とした職場から解放される時間になり、ロイはまだ小山を残したデスクからそろそろと離れた。ホークアイは大部屋に戻っていて、この場にはいない。
「ヒューズ、帰るぞ」
「って、まだ仕事終わってないみたいだけど」
「いや、今日の分は終わった。終わったんだ。……早く荷物まとめろ!」
 こそこそとするロイを呆れ顔で眺めたヒューズは、テーブルに広げたファイルその他をかき集め、落し物忘れ物がないかを念入りに確認する。
「ロイ……お前って、本当に少尉には弱いんだなあ」
「う、うるさい!一度、銃持った彼女に背後に立たれてみろ。背後に殺気だ。その状態で仕事しなくてはならないんだぞ!」
「なんつーか、情けない」
「ぐずぐずしてると置いてくぞ!」
 わざとらしくのろのろと行動するヒューズを急き立て、無事ホークアイに見つからずに車に乗って敷地外に出た瞬間、ロイは大きく息を吐いた。一応自分は上司であるので、基本的にはホークアイに命令出来る立場にあるが、理屈じゃないのだ。例えば、こどもの頃、宿題をサボって母親に怒られたときとか、厳しい女性教師にぴしりと頭を叩かれたときとか。彼女たちに共通するものがホークアイにもある。自分の中のこどもの部分が、無意識にその共通する性質に恐れを抱いているのかもしれない。
 こども。
「……なあ、ヒューズ。年をとっても誰しもこどもの部分は残っていると言うが、だからといってこどもの考えていることを理解出来るとは限らないんだよな」
「当たり前だろ。というより、それ以前の問題だな。こどもか大人かは関係ない。自分か自分じゃないかだよ。他人の考えてることなんて、わかんないのが基本さ」
 今頃そんなことに気づいたのかよ、とでも言いたそうな口ぶりに、ロイは腹立ちまぎれにハンドルをだかだか叩いた。
「お前と喋ってると、時々、無性に、腹が立つ!」
「そりゃ、光栄だな。俺はお前をからかうのが最高に楽しいよ、ロイ」
 行きと違って今度は助手席に座っているのでバックミラーでヒューズの顔を確認することは出来ない。代わりに鏡越しでなく、楽しそうな横顔が見える。そして、ヒューズはそんな笑顔のまま、するっと言う。
「悩みがあるなら話してみな。今の話からして、こどもたちのことなんだろ?」
 全部、お見通しというわけだ。
 そしてすっかり感情の振り幅が大きくなってしまったところに手を差し伸べるなんて、タイミングが良過ぎる。これが情報部仕込みの腕というものか。
 いや、ヒューズの場合は、元からの気質だ。
「笑わないか?笑ったらとりあえず黒こげにさせてもらうが」
「黒こげにはなりたくないので笑いませんよぉ」
「いまいち信用ならんな、その物言い」
 とりあえず、家に帰って万が一また言われてしまったら相談するどころでなく立ち直れなくなりそうだったので、ロイはしぶしぶ口を開いた。
「嫌い、って言われた……」
 昨日、仕事を終えたロイが帰宅すると、アルフォンスはてとてと駆けてきておかえりなさいのキスをくれたが、エドワードは玄関まで出迎えにすらこなかった。夕食のテーブルでは、一切視線を合わせようとせず、話しかけるロイに応えることもせず、挙句の果てには「中佐なんてだいっきらい!」とつきつけて階段を駆け上ぼって行った。
 中佐なんてだいっきらい!
 だいっきらい。
 そのとき、頭の中でエコーになって響いた、とロイが大真面目に言っても、ヒューズは笑わなかった。そしてぽつりと呟いた。
「嫌いって言われるのは、辛いよな」
 実感のこもったヒューズの言葉に、ロイは深く頷く。
 二十年も生きていれば、しかもこんな職業だ。嫌いと言われるのは慣れている。戦地で。普段の街中で。イーストシティーはまだいいが、辺境へ近づくにつれ、軍人には住民の悪態がつきまとう。
 けれど、己に近しい人間から言われるほど。近ければ近いほど。言葉は重みを増す。
「言われ慣れてはいるんだがな……好意を持ってほしい相手から受けるのは、それが100パーセントの気持ちから言われたのでないとしても、思った以上にここに来る」
 ここ、とハンドルから放した片手で胸の上をおさえると、助手席からは「ハンドルは両手で握っといてくれ」と静かな注文がついた。
「ホークアイ少尉が言うには、私がいけないんだそうだ」
 彼女の指摘をヒューズに話して聞かせると、彼はずれてもいない眼鏡をかけなおして苦笑する。
「エドワードの好きな女の子にキスしたらエドワードが怒った、と。まあ、そりゃそうだろ。いいんでないの?男の最初の敵は父親っていうしな。親として認識されたってことで、喜んでいいと思うけど」
「親、か……そうなら嬉しいんだが、いまいち釈然としない」
「あー、わかった。エドワードに好きな子が出来たのがさみしいんだろ」
 さみしい。さみしい?さみしい。
 ぽっかりと空いた気持ち。
 そうかもしれない。
「私から離れていってしまうのが嫌なのかな」
 言われてみれば、ヒューズの考えはすとんと納得のいくものだった。
「パパも大変だな。まあ、まだ六歳だろ?親離れは当分先だろうよ」
 こどもはあっという間に大きくなるよ、と商店街の主人連中から言われたのを思い出したが、同時に彼らの奥様方は皆揃って「こどもはいつまで経ってもこどもよ。なかなか大きくはならないもんだわ」と笑っていたことも思い浮かぶ。その辺は、父親と母親の認識の違いかもしれない。
 しかしヒューズは、奥様方と認識を同じくしているようだ。
「だって、面と向かってやきもちやいてたんだろ?ませたこどもだったら、嫉妬してんなんて、表に出さないようにするもんさ。男のプライドってやつだな」
 お前のエドワードはまだまだお子様だとヒューズは断言し、ロイは喜んでいいのかなと首を傾げつつも、正直なところ、ほっとした。
「なんだか娘を持った父親の気分だよ。……娘がいたことはないが」
 お前のことだからまた俺は実の娘や息子の一人や二人、こっそり作ってるんだとばかり思ってたよとヒューズがにやにやしながら言うので、ロイは運転中でなければその足を踏んづけてやるのに!と歯噛みした。