blind summer fish 55

 玄関先でベルを鳴らすと、控えめなぱたぱたという音がしてドアが開いた。
「おかえりなさい、中佐。あら、そちらの方は?」
 メリッサの問いにロイが答えるより先に、ヒューズが会釈をする。
「マース・ヒューズです。ロイとは腐れ縁で。休暇でしばらくこちらにご厄介になります」
「というわけで、家に泊めるのでよろしく。ヒューズ、こちらのご婦人が――」
「メリッサ。メリッサ・アームストロングと申します、ヒューズ大尉」
 階級を告げてもいないのに、とヒューズが軽く目を見開いた。
「ご存知でしたか、ミズ・アームストロング」
「メリッサで結構よ、大尉。甥のアレックスからお噂は聞いています。近々、少佐におなりだとか」
「光栄です、メリッサ」
「あら、わたくしったらお客様を玄関に立たせっぱなしだなんて。どうぞお入りください」
「お邪魔します」
 何気なく交わされる会話だが、今さらっと大事なことを言わなかったか。少佐におなりだとかなんとか。
「ヒューズ!お前昇進するのか」
「まーな。ぐずぐずしてっと追い越しちゃうぜえ。なんたってスピードだけでいったら、俺、お前よりずっと速いしな」
 ずっと、というか一般的な部署ならば異例の速さだ。
 こどもたちを呼びに行ったメリッサを見送って、ロイは居間のソファーをヒューズに勧め、自分はその向かいに座る。
「種明かしをするとだな、上がいなくなったんだ。退役、辞職、殉職で、下も人材不足だから俺にお鉢が回ってきたってわけ。ま、今回の件が片付いたらっていう条件付だろうけどな」
 ヒューズのいる情報部は、その他の部署とは系統がまるで異なっている。そのためたいていの人間は、一旦情報部に所属すれば一生、その中で階段を昇ったり降りたりすることになり、逆にその他多くの部署を渡り歩いた人間が情報部へ配置換えになるのも稀だ。
 当然のように昇進のスピードにも差が生まれ、ヒューズのように上がばたばたといなくなることがなければ、40を過ぎてもまだ尉官のままでいる人間も出てくる。ヒューズの昇進がいくら早くても、たいては「ま、情報部だしな」で流されてしまうから、彼にはロイほど敵は多くない。
「相変わらず、嫌われてんなあお前。さっき司令部の廊下歩いてるときに、薄ら笑い浮かべた男にすれ違いざま睨まれてただろ。あれ、なんとかクローズっていったっけ。あのエーゲルクソむかつくクソじじぃ将軍閣下の腰ぎんちゃくだ。金魚のフンでもいいな。どっちがいい?」
「どっちって……どっちでもいいさ、そんなもの。それにしても、なんでエーゲル中将にそんなミドルネームを付けるんだ?」
 仕事上でよほどの行き違いがあったのかとロイが尋ねると、理由は半々というところだった。
「俺んとこの部長さんはおとといきやがれ将軍閣下んとこの派閥には関係ないから仕事にはそんな影響ないんだけど、あいつ、愛しのグレイシアのアップルパイを馬鹿にしやがったんだ!」
 相当怒っているのか、握ったこぶしがふるふると震えている。
 ヒューズ曰くの「愛しのグレイシア」はセントラルにあるカフェの娘で、彼女と彼女の作るアップルパイを目当てにヒューズはその店へ足しげく通っている。握りこぶしで語ってくれたところによると、最近美味しいと噂が広まって、甘い物が好きな軍の高官の間でも評判が高かったところにエーゲルは言ったのだそうだ。
『こんなシナモンがきいてないアップルパイなど、アップルパイとは認められんな』
 ただでさえヒューズの中でそう高くもなかったエーゲル株は、その日、史上まれに見る大暴落を記録した。
「シナモンは案外苦手な人間が多いんだよ。で、グレイシアとそのお母様は『苦手な方にも食べていただけるように』ってんで、シナモン抑えて、でも甘ったるいだけじゃないアップルパイを作ってるんだ。それをあの野郎、知りもしないで認めないとか言いやがって!」
 ヒューズが力説すればするほど、ロイの頭の中では「じじいが揃ってアップルパイやらチーズケーキやらを食べている図」が展開されてしまい、怒り狂うヒューズには悪いがなんだか笑いがこみ上げてくる。
 ここで笑ったらヒューズはますます怒るんだろうなあとどうにかこらえていると、メリッサの立てる音よりにぎやかで軽い足音がして、短い金髪の頭が顔をのぞかせた。
「おいで、アルフォンス。お客様を紹介しよう」
 ロイが手招くとアルフォンスはほんの少しの距離も駆けてきて、ロイの座っているソファの脇に立つ。
「ヒューズ大尉だ。私の士官学校時代の友達だよ」
「よろしくな、アルフォンス」
 身を乗り出したヒューズに握手を求められて、アルフォンスは元気よく片手を差し出した。にこにこと嬉しそうだ。
 アルフォンスがぎゅーっと握ったままヒューズの手を離さないので、いったい何がそんなに嬉しいのかと思ったロイは、アルフォンスの視線をたどった先にあるものを見て、ああとばかりに手を叩いた。
「ヒゲか!」
 アルフォンスは「おじさん、おひげさわらせて!」と空いているもう片方の手をえいやっとヒューズの顎ヒゲに伸ばす。
「アルフォンスくん、おじさんはやめて、お兄さんって呼んでくれないかな?そうしてくれたら、触らせてあげるよ」
「んー……」
 アルフォンスは途端に沈黙し、なにやら思い悩む様子になる。
 むぅと腕なんか組んでみたりして、小首を傾げた。
「にいさんは一人しかいないもん。ヒューズさんじゃ、だめ?」
「そっかあ。兄さんは一人か。いいよ、ヒューズさんで。そら、ご褒美だ!」
 ヒューズはアルフォンスを体ごと抱き上げると、柔らかいほっぺたに短いヒゲをすりつけた。
「ちくちくする!」
 きゃっきゃきゃっきゃと笑いながらアルフォンスは喜び、ヒューズは「ロイ、お前もヒゲ伸ばせよ、ヒゲ。その童顔が少しは目立たなくなるぞ」などと言う。
「余計なお世話だ」
 それに以前に一度伸ばしてみたときに大笑いしたのはどこの誰だ、と不満気に鼻を鳴らしたところに、困った様子でメリッサが姿を現した。傍らには誰もいない。
「……エドワードはまだ怒っているのかな」
「ええ。そうみたいですよ。怒りが深いというよりも、あれは意地になってしまって自分でもどうしたらいいのかわからないんでしょうね。中佐も、大嫌いと言われてへこんでばかりいないで、二人きりで話されてみるとよろしいんじゃないかしら」
 すいません。それが出来たら最初から苦労してません。
 胸中で呟いてがっくりと肩を落としたロイに、いまだおヒゲ攻撃中のヒューズが救いの手を差し伸べた。
「挨拶がてら、俺が行ってきてやろうか」
 なんだかヒューズが天使に見えた。明らかに錯覚だ。
「頼む、ぜひ頼む!」
 一も二もなくロイは懇願し、ヒューズは「また後でな」とアルフォンスに言ってひょいっとロイに渡すと、「二階でいいんだよな?」とすたすた歩いて行った。