blind summer fish 56

 ちょっと不安だった。
 ヒューズが二階に上がってからすぐ、なぜかばたばたと大きな足音がして、なんだかがたーんなどという倒れる音がして静かになったからだ。おのれ、うちの子に何をしてくれる!と勢いよく立ち上がったロイに対してメリッサはいやに冷静に「大丈夫ですよ」とお茶の支度をしている。
「いや、しかしだね、メリッサ。あんな大きな音を立てているんだ、どうなっているのか心配にならないか?だいたいヒューズのことを紹介もしていないんだよ。いきなりあんなヒゲ面のうさんくさそうな男が部屋に入ってきたらエドワードだって怯えるだろう。そうだ、きっとびっくりして怖がっている!」
 勝手に妄想を進めて親友をこきおろしヒートアップするロイを見つめ、メリッサはため息をついた。
「先ほどのベルの音は二階にも聞こえているはずです。誰かお客様が来たことには気づいているでしょう。わたくしが悲鳴をあげたわけでもなし、危険な方ではないことはわかっていますわ、エドワードも」
 それに、とメリッサはアルフォンスに微笑みかけた。
「この子が一目で懐いた方ですもの、うさんくさいなどとは考えるはずもありませんよ」
 淡々と言われてしまうと、取り乱してしまった自分が恥ずかしくなる。ロイは脱力したようにすとんとソファーに逆戻りすると、傍にいたアルフォンスを抱え上げて膝に乗せた。はあ、と力ない様子の保護者に被保護者は首を傾げる。
「中佐、げんきないね?」
「お前のお兄さんに怒られちゃってね」
「あのね……うーん、これいってもいいのかな?」
 弟は何やら兄の胸中を知っているそぶりだ。でもいっちゃだめだよね?と自分に問いかけて、迷ったようにくるくる視線が動く。
「教えてほしいな」
「……えっとね、ボクがいったって、兄さんにはいわないでね?」
「約束するよ」
 ぜったいだね?と念を押されたので「絶対だ」とかたく誓う。
 アルフォンスはそれでも幾度かためらって、ようやく口を開いた。
「兄さんね、中佐のこと、かっこよくてむかつくっていってた」
「……?」
 かっこよくてむかつく?むかつく?むかつく?
 いや待て。
 かっこいい?
 前半と後半のつながりがわからない。
 自らの過去を振り返れば、親がかっこよければ嬉しくて、よくなければ悲しんだり嫌だったりするものだったと思う。「エドワードくんのお父さん、かっこいいよねー!」とかなんとか言われて「えへへー、そう?」とかなんとか返すものじゃないのか?
『男の最初の敵は父親』
 ヒューズはそう言っていたが、そもそもエドワードの父親はホーエンハイムだ。なぜ自分が敵にならねばいけないのだ。
 しかし彼はこうも言っていた。
『親として認識されたってことで、喜んでいいと思うけど』
 男の子にとって、父親というものは常に敵なのだろうか。超えるべき、壁として。
 己がこどもだったときはどうだっただろう。過去を振り返りかけて、すぐにやめた。どうも、勝手が違うような気がする。
「アルフォンス。お前もむかつくかい?」
 これでアルフォンスが笑顔で「うん」などと答えたら地面に穴掘って隠遁生活突入だ、と思いつめたロイは、幸いなことに救われた。
「ううん。なんで?」
 こどもは心底不思議そうだ。
「兄さんがなんでそんなこと言ったのか、よくわからないよ。リンディのはなししてて、いきなりおこりだして、ぷうってふくれたんだけど、かんけいあるの?」
 ビンゴだ。
 ホークアイの意見とヒューズの話に加え、今のアルフォンスが教えてくれたこと。ぴったり合う。
 この場合、ロイが保護者であろうとなんであろうと、エドワードには関係ないのだ。まず、間違いなく。ざっくばらんに表現すれば、『好きな女に手を出した男』という認識なのだろう。
 あの年にして。
 私なんて、エドワードの年には洟垂らしてきゃあきゃあ言いながら鬼ごっこしたり木登りしてただけの気がするぞ。
 ロイはがっくりと肩を落としてため息をつく。膝の上のアルフォンスの体温が高くて温かい。
 こどもは体も温かいが、心も温かかった。
「ボクも中佐のこと、かっこいいっておもう。ぐんぷくで、えーっと、肩で、風きって、あるくっていうんだっけ?あるいてるのがかっこいい」
「ありがとう、アルフォンス」
 幼いこどもの素直な賛辞に、ロイはぎゅーっとアルフォンスを抱きしめた。そんなふうに言ってくれるのならば、軍服を着て町の中をどこまでも歩いてみせよう。颯爽と歩く姿が素敵。そんな女性たちからの声より、数倍、数十倍嬉しい。
「でも、中佐はおヒゲないほうがいい。にあわないから」
 別に生やそうとは思わないが、似合わないからとばっさり切って捨てられるとそれはそれでショックだった。

「お前いったい何言ったんだ?」
 夕食後、しばらくして自室に場所を移したロイは、氷とアルコールの入ったグラスをヒューズに勧め、彼の向かいの椅子に腰を下ろした。
「べっつにぃー。何も言ってないけど」
「そんなことを隠してもしょうがないだろう。言え」
 おもむろに発火布などを取り出して見せると、よく燃える物体を手にしているヒューズはわざとらしく「燃やさないでえ」と言いながらグラスに口をつけた。
「ロイおいたんはリンディーよりお前のことがずっとずっと好きで好きでたまらなくて何よりもお前に嫌われるのが一番怖いんだよ、って言っといた」
 途端に、テーブルに置かれた灰皿の中で、燃え残ったマッチに火が点いた。
「おわっ、ちょっ、いきなり火ぃつけんなよ!危ねえなあ!」
 慌ててグラスを遠ざけるヒューズに多少満足して、ロイは発火布を仕舞う。同時にため息を一つ。
「ロイおいたんって何だ。せめて、お、お、おおお父さんくらい、い、言えないのか、ヒューズ」
「どもってんじゃねえよ。その調子だと父親になりたいとか言っときながら、『お父さんって呼んでほしいな』の一言も言えてないんだろ。情けないなあ、マスタング中佐さんよお」
 一応、幾度かは言おうとしたのだ。お父さんと呼んでほしいと。パパでもいい。
 父親になりたいとか、父親のつもりだとは伝えたことがあるけれど、実際呼んでもらうとなると、なかなか言い出せるものではなかった。
 いまでも彼らは、「マスタング中佐」との関係性を聞かれたら「面倒を見てくれてる人」と答えるのだろうか。
 ホーエンハイムが少し羨ましい。いくらエドワードに「クソ親父」と罵られようと「あんなやつ父親なもんか」と言われようと、彼は確かに兄弟の父親なのだから。
 この世の縁で一番強いのは決して血のつながりとは言えないが、血縁というものはただそれだけで、独特の絆を与えるものだから。決して、一番強いとは限らないけれど。
 あのあと、ヒューズに連れられて降りてきたエドワードは、真っ先にロイの元へとやってきて、「……ごめんなさい」と頭を下げた。嫌いと言ったこと。無視をしたこと。どちらに対してのことかは知らないが、ロイはあえて問いただそうとはしなかった。どちらでもあるような気がしたからだ。それに、自分が悪いと納得したことにしか謝るなんてことはしない子だ。ちっとも悪いと思ってなくて、ヒューズという大人に諭されたから仕方なく謝る、ということはあるはずがない。この性質は、彼らの母親が五年というたった短い期間で成し遂げた素晴らしい成果だとロイは思う。
「まあ、俺は無理強いするつもりはないし、あいつらにお父さんって呼んでやれなんて言う気もねえよ。お前らの問題だしな。今回はちょっと首突っ込んじまったけど、今後は控えさせてもらう。自分で解決しろよ」
「ああ、それはもちろん――」
と言いかけて、ロイは口をつぐんだ。この先も多分、一人で解決するのは無理だ。人を二人育てるのに、一人の手で足りるはずがない。トリシャ・エルリックという先達がいるにしろ。
「……すまん、前言撤回だ」
「早すぎるだろ……」
 同い年のくせに一つか二つ年上のように思えることのある相手は、グラスの残りを一気にあおった。
「俺、自分で言うのもなんだけど面倒見いいよなあ」
「そうだな。お前ならきっと、いい父親になるよ、ヒューズ」
「お前に断言されても全然自信にならないね」
 ため息をついたヒューズは、ベッドの上に投げてある書類に手を伸ばす。
「化学に関しては知識はほとんどないに等しいんだよ。フィッタと似たようなもんだってことしか情報部は掴んでいない。てっきり新薬が開発されたんだと思ってたからな」
 だから開発のために必要なだけの施設を隠せる建物を洗い出していたのだとヒューズは言う。ただ、セントラル全域ですら限りある人員では捜索が困難であるのに、地方までとなるととても人数が及ばない。それこそ、特別編成の連隊でも組んでもらわないことには。
 そして、捜索する側の人数が増えれば増えるほど、薬を流通させる側は地下へと深く潜り、足取りを追うのが難しくなるのだ。反比例する悪循環を打ちどめる術は無い。
「一応、セントラルで出回ってるやつは持ってきたんだ。そのNDと一緒のものかどうか、ドクターに調べてもらってくれ」
 ポケットから無造作に取り出した小さな袋を投げて寄越したヒューズは、心底疲れたように椅子に沈み込んだ。
「お前の事件と関係があればこっちは進展するんだけどさ、軍内部の人間が関わってるってのはいただけねえな」
「全くだ」