blind summer fish 57

 軍部にも検視官はいるが、検死の依頼が立てこめば併設の研究所の手を借りることはしょっちゅうで、白骨化した人間が研究所に持ち込まれたことに不審を抱く人間はいない。発見の状況が状況なので、あの場に居合わせた下士官以下の者たちが噂話でも流すかと思いきや、ロイが拍子抜けするほどに彼らの口にはのぼらなかった。特に凄惨で衝撃的な場面でもなかったから人に語るようなものではないのかもしれない。代わりにひそひそと交わされている噂の内容を知って、ロイは深くため息をついた。
「中佐ー、やっぱ結婚するんですかー?」
 くわえ煙草でにやにやと近寄ってきたハボックの頭をついでとばかりにポカリとたたく。
「知っててからかうのなら、仕事増やすぞ。残業残業につぐ残業でせっかく新しく出来た彼女にふられても私は責任は取らんからな。ふられたら『ハボック准尉は女を三日も引き止められない駄目男』と言いふらしてやる」
「……すんません、もうしません」
 そろそろと後退していくハボックは、元々の用事を思い出してか、小脇に抱えていた書類をロイの机にどんと置く。
「ホークアイ少尉からの言付けで、昼食までにお願いします、だそうです」
「彼女は私の処理能力を過大評価しているな」
「っていうより、アンタに残業させないようにしてるんじゃないですか?遅く帰ったらガキどもが寝ちゃうでしょ」
 通常業務とは別口の問題に取り組んでいるのだから、より効率的に早く仕事を進める必要がある。かといって、ロイがこどもたちに会えない時間が増えると、睡眠時間の減少以上に気力に悪影響を与えるので、それを鑑みてホークアイは仕事を詰めている。多分。
「それと、少尉からもう一つ伝言です。件の噂ですが、こちらで対処しましょうか、ですって」
 有能な副官は、上司のプライベート問題も処理しようと考えてくれているらしい。確かに彼女が「そのような事実はありません」とぴしゃりと言えば、ああそうなのか、で噂は収束に向かうだろう。あらゆる面において、信用のある彼女のことである。
 本来ならば自身で否定すべきことだが、この際彼女に任せたほうが無難だろう。事はロイだけに振りかかるものではなく、ランディ・ローズにも迷惑をかけることになるのだから。
 あの診療所でランディに会うことは想定出来得るはずもなく、又、ロイの見合いの噂がまだ消えていなかったのも予想外のことだった。しかし等兵たちが見合いの話とランディを結びつけるのは無理もないことである。
 あとでこの噂のことをランディに伝え、謝ることにしようと思いながら、ロイは「よろしく頼む、と伝えてくれ」と言い、ハボックを下がらせた。
 机上の山に追加された書類を一束引き寄せる。めくってみると、昨日ロイが放置して逃げた仕事だった。他の書類もはぐってみると、放置分よりも量が少ない。そして今手にしている分には、インデックスが付けられ、「僭越ながら」と前置きした上で要点をざっとまとめたメモがクリップでとめられている。流れるように優美な字はホークアイのものだった。
 こんなに優秀な人物が副官であることに感謝をしつつ、ロイは一応は真面目に仕事に取り組み始めた。


 一方ヒューズはといえば、「今頃またサボってんじゃねえだろうな」と普段のロイの生活がうかがわれるようなことを思いながら、街中をのんびりと歩いていた。すれ違った人間は気にもとめない、質素な綿シャツになんのひねりもないズボンという出立ちで、目当ての地域にたどりつくと、どこにでもある食料品店に入る。ポケットから取り出したメモを見て、いかにも買い物を頼まれた風を装いつつ、いくつかの品物を買う。おつりを渡してくれた店の主にこちらから世間話を持ちかける前に、店主の方が「見かけない顔だね」と話しかけてきた。
「イーストの反対側の方に住んでるからさ。知り合いが風邪引いて寝込んでて買い物頼まれたんだよ」
「一人暮らしなのかい?」
「そ。しかも越して来たばっかでこっちに知ってるやつがいないからってさ。ああ、そうだ。オネーサンこの辺に詳しそうだから聞いてもいいかな」
「内容によるね」
 オネーサンだなんて口がうまい子だよ、と主はそれでも満更でもなさそうに笑う。
「この近くに日当たりのいい安い部屋があったら教えてほしいんだ。そいつの部屋、ちょっと日当たり悪くてさ、しかも……出るらしいんだよね」
「出るって……幽霊かい?」
 体調崩したのもそのせいなんじゃないかって気にしてるだとか、家賃が安いから飛びついてしまったんだとかそれらしく聞こえる作り話をヒューズが並べ立てると、主はなんの疑いもなく答えてくれた。
「そうだねえ。アタシはちょっと思いつかないけど、知ってそうな人は教えてあげられるよ」
「ありがと。初めっからオネエサンみたいな親切な人に会えればよかったのにな」
「変なのにひっかかっちまったんだね。まさかあのヤロウかね」
 主の挙げた名前に「そんな名前だったかも」と曖昧に頷いてみせると、主は勝手に納得したようで他人事なのに自分のことのように憤慨した。
「まったく、ヤツらには困ったもんだよ。アンタの友達に言っといてくれ。ここから2ブロック先にある酒場には近寄るなってね。ヤツらのたまり場になってるから。……友達の住んでるところがオレンジの屋根で窓枠が黄色のとこならすぐに出てったほうがいいよ。裏手が使われなくなった工場になってるだろ。そういうところには変なやつが集まるからね」
 一軒目から目的の半分を達成してヒューズがひそかに喜んでいると、主は重ねて言う。
「アンタの友達にお大事にって伝えておくれな。うちの店に来たらマケたげるからさ」
 お見舞いに、とリンゴを一個、紙袋に入れてくれた主に礼を言ってヒューズは店を出た。少しの罪悪感を伴いながら。
 作り話には慣れたが、今のように架空の人物の心配をしてもらったりすると、申し訳なく思う。そのうちこれにも慣れるのだろうか。
 何か釈然としないものを抱えつつ酒場の位置を確認してから、昨夜のうちに頭にたたきこんだ地図に従って、次の区画へと向かった。
 その区画内でも同じようにして、地域内で後ろ暗いことをやっていそうな者、日の当たる生活からあぶれている者の集まる場所を調べていく。
 東部地域のはずれで起こったとはいえ、イシュヴァールの内乱の影響は確実にこのイーストシティにも及んでいた。仕事を求めてなだれ込んだ人々とともに、東方司令部が把握していた特定の人間の載るブラックリストもだいぶ実情にそぐわなくなっている。廃屋となった建物も増え、彼らの溜まり場もまた増加した。
 ヒューズはロイからこっそり提供してもらったリストや地図を頭の中で書き換え、陽がそろそろ沈むという頃になってようやくロイの家へ戻ることにした。
 東部の夕陽は、そのほとんどが戦場で眺めたものだった。一応任務で来ているとはいえ、こんな風にのんびりと街中を歩きながら見るものではなかった。凄惨な記憶ではあるが、過ぎた日々の夕陽はいつも、息を呑むほど美しかった。しかし、もう見たいとは思わない。いつ命を失うか知れない状況で、今日の命を終えて地平線に消えていく太陽に自分を重ね合わせるなど。だからこそ美しいとしても、絶対に。
 内乱など、戦争など、存在してはならないのだ。
 世の大半の人間は、殺し合いなど望んでいない。
 それなのに。
 ヒューズは今回の任務に付随して得た情報を思い出す。あの内乱を逃れたイシュヴァラの民が、少しずつ集結しているという噂を。東方での不穏な動きと彼らが関係している可能性を否定しきることは出来ないが、噂でしかないことをヒューズは祈る。ようやく人々の意識に日常の占める割合が高くなり、活気が生まれ、町が発展の方向へと前進したのだ。こどもを得て、幸せな笑顔を見せるようになった人間がいる。
 英雄と呼ばれた親友は、今でもあの夢を見るだろうか。