blind summer fish 58

 そんな、感傷的な気持ちのままで戻った自分を、ヒューズは心の底から後悔した。酒の一杯や二杯を引っ掛けて、男同士の気兼ねない語らいなんてしようかと思っていたのだ。それが何だ、
この事態は。
 ロイがふてくされたような情けない表情でソファに転がっている。


 事の起こりは兄弟が学校で貰ってきたプリントだった。
『父兄見学のお知らせ』
と書かれた紙には、形式ばった時候の挨拶と簡潔な連絡事項。見学会をやりますよ、日時はこれこれこうです、ぜひいらしてください。要点をさらえば、そんなふうになる。
 どうせ日時が日時で仕事が重なって行けないんだろう、とヒューズが苦笑いをすると、ロイは「それもあるが」と情けなさ倍増の顔をしてクッションを抱きしめた。男がそんな格好をしてもちっとも可愛くない、というより気味が悪いとヒューズは素直な感想を述べ、メリッサに入れてもらったコーヒーを片手に、ソファの空いているところへ腰を下ろした。
 ローテーブルの上には問題のプリントがあったので、ざっと目を通す。
「なんだこれ、明日じゃないか」
 こういう行事は一週間前には知らされるものだ。右上隅のプリント作成日を見れば、確かに一週間ほど前の日付が書かれている。親バカのロイのことなので、昨日会ったときにこの話が出ないのはおかしい。ということは、ロイ自身が知ったのも、今日、それもついさっきなのだとヒューズには簡単に推測することが出来た。
「エドワードもアルフォンスもずっと私に言わなかったんだよ。メリッサにも!」
「それで理由は聞いたのか?」
「勿論聞いたさ。あの子たちは……」
 仕事が忙しいロイに遠慮をしたのだろう。
 郊外や、のんびりとした田舎では、村の大人が何くれとなく顔を出し、先生もよく見知った人間なのでわざわざ期日を決めて父兄を集めなくても学校は滞りなく運営される。しかし都市部の学校となると、うちの子はもっと上の学校へ進ませたいだとか、多額の寄付により様々な便宜を図るよう要求があるとか、親がこどものいる環境を自分の目で確かめる場を設けなくてはならない。兄弟の通う学校では年に二度ほど見学日があるらしく、今回が転入して初めての父兄見学になる。
 両親が店をやっていて休めない、というこどもは大勢いる。というより、そちらの方が割合としては多い。ひょっとしたら、エドワードもアルフォンスも、みんなのお父さんやお母さんが来るわけじゃないならいいや、とそれほど真剣に考えたわけではないのかもしれない。
 しかしそれでも、見学日が来ることを一言知らせるくらいはしてくれてもいいはずだというロイの訴えはヒューズにも理解出来る。
「確かに、日勤のときなら行けないが、もっと早く教えてくれればスケジュールを調整したのに」
 ホークアイもこどもたちには優しいそうなので、ロイのためというよりこどもたちのために喜んで調整してくれるだろう。その分、前後に馬車馬のように働かせられるロイの姿が目に見えるようだが。


 こんなふうに落ち込んでいるロイと、同じようにいささかのショックを受けつつこどもたちにどう聞いたらよいものやらと悩むメリッサ、さてどうしたものかと思案するヒューズの三人が場の温度を下げているためか、食卓を囲む残りの二人は空気におびえたように背中を丸めてスープの皿をつっついた。その背中がロイの一言にびくっと揺れる。
「見学日のことだけれどね」
「あ、あのな、それ、ぜったい来なきゃいけないってことじゃないからってせんせい言ってたから。お父さんやお母さんが忙しくて来ないとこも多いんだ」
「ボクのせんせいもそう言ってた」
 もう完全に、ロイは忙しいから無理だとはなから諦めた発言だった。
「もう少し早くに教えてくれれば、いくらでも時間は取れたよ」
 溜息をつくロイにこどもたちは身を竦ませ、その様子を見たヒューズは、そりゃまずいだろ、と頭を抱えた。こういうときは、少しでもこどもを咎めるようなことを言ってはいけない。子育てをしたことのないヒューズに詳しいことはわからないが、案の定、二人ともごめんなさいと呟いてうつむき、ロイは慌てて「お前たちが謝ることじゃないよ」と言ったけれど手遅れだった。
 どことなく気まずい夕食の後、兄弟はとっとと自室へ逃げてしまい、あとに残された大人三人は困ったように顔を見合わせた。
「とりあえず、お茶でも淹れましょうか。紅茶でよろしいかしら」
 男二人が頷くと、メリッサは手早く仕度を整え、三人分のカップをトレイに載せて戻ってきた。
 ストレートに見える紅茶から漂ってきた匂いにはアルコール分が含まれていた。
「ブランデーを入れましたの。お酒をお出ししようかとも思ったのですけど、中佐はヤケ酒になってしまいそうだから」
 そう言って微笑むメリッサを見ていると、ロイのささくれだった気持ちも幾分落ち着いてきたようだ。温かい家庭に素敵な女性。彼女があと30年遅く生まれていて、しかもグレイシアに出会っていなければ絶対に口説いたのに、とヒューズは益体もないことを思いながらブランデー入りの紅茶に口をつけた。
「俺が行こっか?」
  なんともしゃっきりしないロイの姿を見ていると、ここは一つ俺が一肌脱いでやるか、という気になってしまう。互いに、煮え切らないときは背中を押して、後退りするときはその尻をはたくのが、これまでの自分たちだ。そしてこれからも。
「お前が?」
「おう。見学っていっても、半日もつぶれるわけじゃないだろ。昼から数時間だったら、こっちの仕事にも影響ねえしな」
 大丈夫大丈夫と笑って請け負うと、ロイの顔が次第に不機嫌になってくる。あともう一押しだ。
「ちゃーんとあの子たちの学校生活を見てくるよ。細かくメモしてあとで教え――」
「ヒューズ」
  ゴホンとわざとらしく咳払いをしてヒューズを遮り、ロイは言った。
「せっかくだが、やはり私が行くよ。仕事はなんとかなるだろう」
 かかった!とヒューズは密ににやりと笑んだ。人が行って自分が行けないとなると、なんとかして行きたくなるものだ。ましてや、可愛い兄弟のことなのだから。
 ヒューズのささやかな策略に気づいたメリッサが、まるでいたずらっ子みたいにヒューズに目配せをした。