blind summer fish 59

 物事には運、不運というものがある。この場合のロイは、悲しいことに後者に真正面からぶち当たった。
 ヒューズにしてみれば、ロイは非常に幸運というか強運の持ち主であると思うのだが、こういう日常の細々としたところで少しずつ運を手放しているからこその強運であるのかもしれない。
 朝、どうにか都合をつけてくる、と幼い兄弟より先に家を出たロイが情けない顔で机につっ伏している。遅れてやってきたヒューズは、苦笑顔で溜息をもらしたホークアイに同情しつつ親友の頭を小突いた。
「ホークアイ少尉への恨み言も俺への恨み言も仕事の愚痴も一切聞かないからな」
 先手を打ってロイの不満を封じ込めると、どうしても駄目だったのかとホークアイに目線で問いかける。
 ホークアイは少々すまなそうに「この後、研究所へ用事が」と答えた。
「じゃあ、かわりに俺が行ってくるよ。場所どこだっけ?」
「……ずるい。ずるいぞ、ヒューズ」
「何を言うか。ガキどもの様子を一言一句もらさず詳細に報告してやるぞ」
 そこでロイはがばっとはね起きてヒューズを見つめ「本当か!?」と期待に目を輝かせた。
「勿論。情報部員を甘く見んなよ」
 しかしロイの元気は長続きせず、しゅーしゅーと音が出ないのが不思議なほどあっという間にしぼむ。久しぶりにあった親友を、風船のようだと内心で評して、ヒューズはホークアイから聞いた場所を頭の中にメモして執務室を出た。
 幸い私服だったため、マスタング家に寄って着替える必要はない。ロイなどが遠慮なくこきおろす趣味の悪い柄シャツを華麗に着こなしたヒューズは、学校の校門で守衛に一度止められながらも、無事に教室までたどり着いた。
 すでに授業は始まっていて廊下はしーんとしている。ヒューズは静かにするするとドアを開こうとしたが、蝶番がきしんで小さく耳障りのする音がした。先に来ていた父兄の目と、自分の親かと思って期待した生徒の視線がそそがれる。その中に丸い金色の目が四つあって、二人ともそれぞれあんぐりと口をあけてぱくぱくさせたあと、ヒューズの後ろに誰かいないか探すように落ち着き無く見回し、そして少し悲しそうな顔をした。建前はどうあれ、本音ではロイに来てほしかったのだろう。あとでロイに言ってやらねば、と一つ目の報告事項を脳内に書き連ねた。
 もう半分ほど過ぎてしまった授業は、黒板を見る限り、歴史らしい。といっても、士官学校で習うようなアメストリスの素晴らしい栄光の云々ではなく、工業や経済といった、商業人の家庭が多いこの学校向けの内容だった。どちらにせよ、交通網や物品の流通は軍事政権なくしては短期間の発達はなしえないわけだが、不必要なまでの政権賛美はなく、かといってさしたる批難もなく、バランスのよい教え方だとヒューズは感心した。これが学校の方針なら良し、そうでなくともこんな先生ならばこどもを預けても安心だろうと、二つ目の報告事項を書きとめる。
 ロイはいずれ二人を錬金術学校に通わせることも考えているかもしれないが、士官学校へ進ませるなんて頭の中をかきまわしてもどこにも無いはずであるし、自分が軍人だからといって軍人の仕事全てを二人に肯定してほしいと思ってはいまい。勿論、全てを話しはしないだろうが。誰だって父親は息子や娘に「お父さんってすごいね」と思ってほしいものだ。ヒューズにしてみても、まだ生まれてもいない娘(自分のこどもなら絶対に娘と決めている)が天使のような笑顔で「パパってすごい!」と言ってくれる姿を想像してみたことはある。ロイに「それは想像じゃなくて妄想だ」と斬って捨てられたことはもう記憶の彼方だ。
「それでは、この問題がわかる人は手を挙げてー」
 ハーイ、ハーイとあちこちで一生懸命に手を伸ばすこどもたちの姿は微笑ましい。父親がこどもにすごいと思ってほしいならば、こどもだって親にすごいところを見せて誉めてもらいたいのだ。見守る親のほうが、はらはらしているのが楽しい。
 しかし、だ。とヒューズはふと思いついた。錬金術学校へ進ませるということは、多少なりと国――軍と関係が出来ることを意味する。生半可な成績や技術では入学すら出来ないとは聞いているが、あのロイ・マスタングが自ら引き取ったこどもたちだ。才能が無いなんてことはありえない。その点では門外漢のヒューズでもロイの力を認めている。いくら、サボり常習犯で部下にいつも迷惑をかけ、他人の彼女を盗ってはすぐに別れ、案外と寝汚い人間であっても。
 学校で優秀な成績を修めれば国家錬金術師への道が開ける。研究職にも就ける。ありていにいえば、金には困らない。しかしそれは同時に、軍属になることを意味する。
 ロイは彼らによい教育を受けさせたくても軍属になることは望むまい。
 こどもたちが自ら望むとしても、真っ先に反対するだろう。冷めた目で見れば、そもそも国家錬金術師で正式の軍人であるロイが引き取った時点で、二人ともなんらかの関わりは持つことになる。世の中には子持ちの軍人も多く、彼らのこどもたちが皆軍人になるわけではないが、ただ、実の親子という必然性が、ロイとこどもたちの関係には無いのだ。それがこの先どう作用するか、ヒューズにはわからない。きっとロイにもわからない。
 誰にもわからない。


 鐘がなるとこどもの集中力が途切れるためか、引き伸ばすことなくさっさと授業は終わった。同時にあちこちで、親同士の挨拶やらなんやらが始まる。
 ヒューズは兄弟の本当の父兄ではないため下手に挨拶なんかしないほうがいいだろうと、その場に留まった。それにすぐに兄弟が来る。
「ヒューズ大尉、中佐は?」
 予想はしていたが第一声がそれだとさすがに淋しい。
「仕事が終わらなかったんだよ。行きたい行きたいって相当駄々こねてたんだがな」
「中佐が?こどもみたいだ!」
 こどもたちはけたけたと笑うと、はっとしたようにヒューズを見上げた。
「来てくれてありがとう」「ありがとうございます」
 お礼のユニゾンに、いい子たちだなあとヒューズの頬もゆるむ。将来の自分のエンジェルちゃんもこんな子だったらなあと想像もとい妄想をしていると、クラスメイトの女の子が水を差した。

「このおじさんがすごくかっこいいお父さん?」
  少女はこども特有の無遠慮さでもってヒューズを品定めしたようだった。そしてかっこよくないという結論を出したのだろう。失礼というよりも笑うしかない。
「この人はヒューズ大尉。ボクたちのお父さんのともだち」
 アルフォンスの説明に簡単に納得した少女は、二人を連れて、近くで談笑していた母の元へ駆けて行った。紹介しようというのだろう。
 続いてやってきた顔には見覚えがあった。モンタージュ写真をめくるようにして記憶の中から引っ張り出されたのは、東方司令部に行く途中で何度か見かけた顔だった。
「司令部の近くのベーカリーでお見かけしましたね」
「あら、覚えてくださってたの」
「人の顔を覚えるのが特技なんです。ましてや貴女のような美しい方なら、忘れるはずがありません。貴女のほうこそよく覚えておいでだ」
「お上手ですね。それと、私の特技も同じですよ」
 客商売ですから、と物怖じもせずに笑うベーカリーの女主人は「今日はマスタング中佐がいらっしゃらないようですけれど」と辺りを見回した。
「仕事の調整がどうしても付きませんでね。友人としてかわりに来た次第です」
 彼女はそれに当たりさわりのない返事を返すと、すっと声をひそめた。
「お仕事のままの服装でいらっしゃらなくて大正解よ。この学校には親が軍部に勤める子どもは少なくないし、なじみもあるけれど、そうでない人もいるから……」
 店主として軍人と接する機会の多い彼女の視線を追うと、こちらを睨みつける少年と目が合った。
 まずい。
 何か、まずいことをした気がした。何かはわからないが、失敗した。
 呼び水のような。きっかけをつくったような。
 あの目は。
 どこかで見た。どこかで。近くて遠い、あの記憶の中の。目に。
 一対の目が、重なる。
「エドワード、アルフォンス――」
 慌てて二人を呼んだが遅かった。ずかずかと歩いて行った少年が、エドワードの肩を突き飛ばした。
 教室に溢れるにぎやかな声や音の中、その言葉は妙に響いた。
「何が”かっこいい”だよ。お前の父ちゃんなんて、人ごろしじゃないか!」