blind summer fish 6


 ホーエンハイムの著書の中でロイが一番気に入っているのは「台所から始まった錬金術」だった。世に出ている三冊のうち、この一冊は他の二つと明らかに違う。
 錬金術は台所から始まった、という説を唱える学者は多く、この本はそれらの学説をわかりやすく解説した体系書の一種だ。時折、唐突に「おなかに優しい夜食の作り方」やら「おいしいカレーの作り方」が書かれていたり、「焦げた鍋を綺麗にする方法」が図つきで説明されていたりと、読み物としても台所の実用書としても面白い。台所に関することならなんでも放り込んでしまえ、とでもいう、一見投げやりなように見えるが楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
 もちろんそれら表面をすくいとって暗号をすべて解けば、中からはさらに一歩踏み込んだ学説の体系から、理論的には可能とされたものの実用化には至っていない治癒錬成のことまで、幅広く扱ったもう一つの錬金術書が現れる。
 その暗号がまた難しく、まだ十代だった当時のロイは解読に随分と苦労させられたが、その作業も楽しいものだった。それまでに読んだ二冊は真面目一辺倒の学術書で、暗号も、長いあいだ研究所にこもってひねくれてしまったじいさんのように意地の悪いものだったが、これは同じ意地の悪さでも茶目っ気のような遊び心が見え隠れした。あまりの変化に、まるで別人が書いたみたいだ、と著者が本人かどうか疑う者もいた。評価の高いホーエンハイムの名を借りることで自分の説を知らしめようとする、名もなき学者が書いたのではないかと。
 しかし学者というのは一般的に自分の名を前に出したい生きもので、すでに有名な学者が若手の説を横取りするというならまだしも、その逆はあり得ないと、別人説を訴える者への反論が出た。そのため、すぐに別人説は消え失せた。
 科学者である錬金術師という狭いコミュニティの中で起こった論争に、一部のものは至極冷めた視線を向けていた。解読後に現れる理論の展開を見れば、同一人物が書いたものであることは一目瞭然。それを、学者の性がどうだのと、つまらない視点で争うのは、自らを彼の著書を読むに値しない者だと公言しているようなものだ。
 何かをきっかけとして彼は変わった。というのが、一部の冷静な人間たちの推測の結果だった。
 変わったきっかけはこの女性なのだろう。
 ロイは居間の低い棚に乗っている写真立てを手に取った。さっき書斎の、ホーエンハイムの机にあったのと同じ写真だ。
 アルフォンスは母親似だ。特に目元がよく似ている女性は、優しげな表情でとても綺麗に笑っている。茶色のゆるい巻き毛が、ふんわりと顔の周りを彩っていた。
 そっと写真立てを戻すと、ついさっきまで引越しの準備(主に父親の書きつけのまとめ)に辺りを駆け回っていた兄弟が、おとなしくなって、立っているロイの足にぴたりとくっついた。小さい顔がロイを見上げる。
「それ、おれたちの母さん」
「うん。綺麗な人だね。幸せそうに笑ってる」
「とってもやさしいひとだったんだよ」
「君たちを見ていればわかるよ」
 母さんのことがだいすきだった、と二人は呟いた。母を亡くすには、二人はまだ幼すぎる。けれど、だからといって死者は生き返りはしない。彼らの母親は、もう彼らを抱きしめてあげることが出来ない。
「母さんはおれたちに、さいごに、わらっててっていった。ずっとわらってなさいって」
 笑顔を絶やさないように。悲しみにいるときでも、笑顔でいることを忘れないように。
 それはある種の呪縛だ。死者を悼む涙をも封印してしまう――母親らしい願いは、その一方でこどもをやわらかく苛んだ。
 明るく動き回って、はしゃいでいたのも空元気だ。優しい呪縛は、そっと解かなければならない。
「いいんだよ、二人とも。人は泣きたいときに泣かないと、心の底から笑えなくなる」
 ロイは二人の頭をなで、泣きだした兄弟の声が静かな家に響くのをじっと聴いていた。


 泣きはらしたこども二人を連れ帰っても、ピナコは驚いたように軽く目を見開いただけで、何をしたのかとロイを問い詰めるようなことはしなかった。
 書斎で思ったよりもずっと早く時が過ぎたのか、ロックベル家に戻ったときはすでに日が暮れる頃で、当然のようにロイの夕食と寝床も用意されていた。
 けれど夕食はともかく、せっかくの寝床は使われることはなかった。エドワードとアルフォンスが使っている部屋のベッドを二つくっつけて、そこに三人並んで寝ることになったからだ。
 ロイにすっかりなついた二人は、泣きはらした赤い目と掠れた声をしていたが、それでも元気で、これから住むことになるイーストシティがどんなところか、どんな人がいるか、話してくれるようにロイにねだった。
 とても厳しい学校の先生のような副官のことを話しているうちに、すーすーと寝息が聞こえ、二人が眠ったことを確認すると、ロイは毛布をしっかりとかけなおして枕に頭を落ち着けた。窓の外は満天の星空だ。こんなふうに、あたたかい気持ちで空をながめたのは久しぶりだった。