blind summer fish 60

 ざわめきがぴたりと止んだ。大人もこどもも皆、何事かと渦中へ目を向ける。
 静まり返った教室で、親が凍りついたように彼らを見た。こどもたちも大人の緊張に刺激されて動きを止めた。時計の針だけがチクタクと動いている。廊下を行く他クラスの生徒、親の楽しげな声が、薄いガラス一枚向こうではずんでいた。たった一枚隔てたこちら側は、空気が痛いくらいに張り詰めているというのに。目に見えない糸に、動けば首を刎ねられてしまうような緊張感がそこにはあった。
 沈黙を破ったのはエドワードの上擦った声だった。
「……なんだよ、それ」
「知らないのか?イシュヴァールノエイユウ」
 イシュヴァールノエイユウ。
 イシュヴァールの英雄。
 名声として、時には皮肉交じりに用いられるそれは、国家錬金術師、中でも特にロイ・マスタングをさす言葉だった。戦場における名声とは、自軍の勝利への貢献度によって与えられる。どれほど味方の死者を抑え、敵を滅したか。どれほど効率よく、敵と味方を死なせたか。人を屠った証。
 まさに、人殺し。
 夢があった。若者らしい、この国の行く末を照らす夢が。
 そして、対話による和解と降伏勧告が意味を為さないことを知り、人を手にかけることなど出来ないと思っていた自分が相手の命と自分の命を天秤にかけて後者を選べる人間であったことを知り、常に後者を選択するようになった。涙は流した。そして枯れた。
 それでも、まだ自分はよかった。相手は普通の人間で、自分も普通の人間だった。両者の明暗を分けるのは、量と運でしかなかった。
 しかしロイは違う。圧倒的な戦力を他の人間となんら変わりのない身体に持った彼の前には、天秤すら存在しない。
 彼に涙は無かった。笑みすら無かった。その無表情が悲しくて、どうにかして泣かせよう、笑わせようとして、酒を飲ませたり、みんなで押さえつけてくすぐったり、ちょっとした隙に顔にいたずら描きをしたりした。ようやく何がしかの表情を引き出せたときは安堵のあまりに腰が抜けそうになって、そして。
 感情を眠らせたままにしておけばよかった、と。後悔をしたのだ。
 だから、どうにか立ち直ってくれたときには、腰が抜けるどころか全身の力が抜け切ったくらいだった。そのうえ、こどもを二人引き取ったと聞いて、驚くとともにすぐさま応援したくなった。
 それなのに、そのこどもの前で。なぜ、いまさら。
 町の子達には英雄の名はさほど有名ではないし知っていてもある意味でお伽話の中の主人公のような存在だ。普通の学校に通っていて、こんなことに出遭う可能性なんて限りなく低い。
 それなのに。何故、今更。


 あの目に直面しなければいけないのだ。

 
 とん、と背中をはたかれ、ヒューズは我に返った。
 先ほどの女主人にどうにかしろと無言で叱咤され、ようやくヒューズは兄弟をかばう位置に立ち、睨みつける少年の頭に手を伸ばした。
 途端にはねのけられたが意に介さないフリをする。
「悪いのは、この子たちじゃないよ」
 もちろん、君も。そう付け加えると、少年ははじかれたように逃げ出した。
 騒ぎの一端がいなくなったことで少しずつざわめきが戻ってくる。ただ先ほどまでと違って、安堵と戸惑いとためらい、幾ばくかの非難が入り混じったものだった。非難は、こどもにどう説明したらいいのかと悩む親のものだろう。面倒なことを起こしやがってというため息にエドワードはおびえ、アルフォンスもその気持ちが伝わったのか、兄のシャツをぎゅっとつかんでいる。
 ヒューズは騒がせてすまないと誰にともなく謝罪を述べ、女主人に会釈をすると二人を連れ出した。手を差し出すとアルフォンスはすぐに握り返しエドワードはためらったが、ヒューズは強引につかんで歩いた。校舎を出て、街中に入って、商店街を通り抜け、一直線に家へと向かった。
 ヒューズがずんずん歩くので小走りになったこどもたちは、それでも文句は言わなかった。ただ途中でエドワードが一言だけ。
「ヒューズ大尉は?」
と言った。
 あなたは、人を殺したの?
 ああ、両手でも足りないほどに。
「してない。俺は後方支援で物資の輸送が主な仕事だったから」
 嘘を、吐いた。