blind summer fish 61

 終わったらヒューズが顔を出す予定だったので、いつ来るかいつ来るかとそわそわしていたロイは、優秀な副官の冷ややかな視線にさらされながら机にかじりついていた。せめて外回りなら気もまぎれるというのに、朝から書類、書類、クローズの嫌味、書類、書類でまだ昼だというのに腰も尻も痛い。それだけ体が疲れているというのに、ホークアイには一言「もう、お年なんですね」で斬って捨てられた。
 唯一憩える場所がホークアイの入って来られないトイレというのも悲しい話である。どうにか昼までに提出の求められていた報告書をまとめあげたのは、それから三十分後のことで、タガートからの封筒を携えたブレダが入室許可を求めたのはその直後だった。
「ようやく解放されたようですね」
 廊下でホークアイとすれ違ったというブレダは、厚みのある封筒をどさっと机に置いた。
「……これは、全て目を通さなければならんのか?」
「八割方は見てもわからんだろう、って言ってましたよ」

 ならそんなもん寄越すな、とロイは疲れ気味に呟いて封筒の中身を盛大に広げる。もし無関係の、それかいがみあう関係にあるような人間が入ってきたらどうするのかというブレダの疑問は黙殺して、分厚い資料をぱらぱらとめくった。タガートの言うとおり、ほとんどはあの薬――NDに関する成分分析、開発に至るまでの技術的な過程についてのものだったから、専門家ではないロイにはすべては理解出来ないし、理解するにも時間がかかる。見てもわからないというより見る必要はないということだろう。大方、タガートの嫌がらせだ。
 ロイにとって必要なのは、残りのほうだ。ブレダが資料の束から抜き取った数枚をロイに寄越した。
「これは……。ブレダ准尉」
 ブレダに鍵をかけさせると、ロイは資料を無造作に封筒につめこんで引き出しにしまい、残りを慎重にめくり始めた。
「准尉はこれを読んだのか?」
「全部じゃありませんがね。先生の記憶を一部口述筆記したので、見ざるを得なかったっていうか……」
 言外に、まさかこの期に及んで捜査からはずす気じゃあねえよなあ?という疑いの眼差しにさらされて、ロイはあははと乾いた笑いでごまかした。
「よくまあ、これほどの資料を残しておいたものだな」
 ところどころにブレダの割と丁寧な字が書きこまれているそれは、開発チームのリスト。日付は数年前になっていて今現在どこに住んでいるかはわからないという注釈付で氏名と当時の所属、住所が書かれていた。
「あの先生、よっぽど気に病んでたんでしょうよ。こんなもん持ってることが何かの拍子にバレでもしたら、命ありませんもんね」
 新薬開発自体はとがめられるものではない。問題は、実験のために市場に流したこと、結果を知りながら戦場で使用させたことだ。セントラルで将軍閣下になっているという男がいるなら、裁かれねばならない。軍上層部ひいては大総統までもが関わっているのではないという前提で。
「どちらにせよ、敵は大きいな」
「俺は一蓮托生って言葉、そんなに嫌いじゃありませんよ」
 行けるところまでついていくという部下の意思表示にロイは苦笑を零すと、あらためてブレダに向き直った。
「ブレダ准尉。一つ、頼まれてくれるか?」
「アイ、サー」
 ロイはメモ用紙にさらさらと住所を書きとめて部下に渡した。
「この男に伝言してくれ。研究所のタガートについて出来る限りのことを調べてほしい、と」
「ちょっ、中佐?まだ先生のこと疑って――」
「違うよ。どこまで先生が過去を消せたかどうかの確認のためだ。簡単に割れるようなら彼の身が危ない」
「はあ……わかりました」
 失礼します、と敬礼をしてブレダが出て行くと、ロイは重要なリストを折りたたんで軍服の隙間に押し入れた。薬についての資料を入れた引き出しにも鍵をかける。
 あとはヒューズにも別口で調べてもらって、タガートに関しては出来る限りの対策をとることにして、と。もうしばらくは身辺がばたばたしそうだ。疲労がたまりきらないうちに発散させておいたほうがいいだろう。スケジュールを調整してもらって、あさって辺りの午前中にでもこどもたちを連れて丘の上で昼食を取るなんていうのもいいなあと、ホークアイの頭痛の種になるようなことを考えてロイの口元は緩んだ。明日はまた診療所に行くことになっている。エドワードが遊びに来ていてまた小さなリンドベル嬢のことですねられたらどうしようという不安も、疲れた身には可愛いものだ。ヒューズにとりなしてもらったのでエドワードが本気で怒ることも、きっともう無い。
 この事件が片付いたら、少し前から考えていたことを実行に移してみるつもりだ。
 先日の診療所での錬成を見るに、エドワードの成長は予想よりも早いものだった。この分だと、アルフォンスも充分に上達している。基礎のほとんどはすでにさらった。そろそろ、何か一つ、興味のある分野を専門的に取り入れてもいい頃だ。
 ロイの専門は気体、密度といったものだから、それ以外に興味があれば、伝を頼って他の錬金術師に教えを乞うのもいい。あらゆる要素を学ぶならば錬金術学校が環境的には一番いいが、勉学や研究といった面以外の環境は、あまり小さなこどもを置いておきたくないところだ。何度か訪れた学校は、ロイの記憶ではそういう場所だった。
 ノックの音がした。ヒューズかと思ったが違った。顔を出したのはホークアイで、「ヒューズ大尉からお電話です」と告げる。
 なぜ直接かけてこないのかと思ったら、ロイの疑問がわかったのかホークアイが無言で机の上の電話を指す。受話器が傾いてはずれていた。
 しかたなく司令室まで行って電話に出ると、受話器の向こうには沈黙が降りていた。騒音がないから、学校からかけているのか。それとも家か。
「ヒューズ?」
 ホークアイはヒューズからの電話だと言ったから、相手は彼に間違いはない。ただ、いつもならこちらが口を開く前に陽気に語りだすのに、ずっと黙っている。さては何かあったかと一瞬にしてロイが気を張り詰めると、ヒューズは「話したいことがあるから早めに帰ってくれ」とだけ言って、ロイが答えるより先に通話を切った。嫌な予感がした。