blind summer fish 62

 嫌な予感は、そう外れることがない。
 帰宅したロイを迎えてくれたのはメリッサだけで、彼女も困ったように微笑んで二階を見上げた。
「こどもたちは二階か?」
「ええ。ですがまずは夕食を召し上がってください」
 メリッサに促されるまま食卓に付いたが、夕方といっていい範疇の時間帯なのに用意されたのは二人分だけだ。分量でいうならば、一人と半人前。少ないほうは給仕をする彼女のものだろう。
 家中が重苦しい空気の中、メリッサは用意を整えるとロイの真向かいに座った。おそらく彼女は理由を知っている。ただ、知っていても彼女が食べろというのなら食べておいたほうがいい。確かに空腹ではあったので、はずまない会話とともにほとんどを腹に収めた。
「ヒューズ大尉は客室にいらっしゃいます」
 こども部屋には顔をお出しになりませんよう、といつもより過剰に丁寧に釘を刺したメリッサの発言に、思っていたよりも深刻な問題が生じていることがわかった。言われた通りにこども部屋を素通りして客用の寝室へ向かう。ノックをして自分だと告げても返事がなかったので同じことを繰り返し、もう了承を待たずに入った。
 部屋は薄暗かった。食べている間に日が落ち、街灯の少ない庭に面した部屋は月明かりもあまり届かない。カーテンを引いた上に灯りをつけなければ、歩くのにも困るくらいだった。
「点けないのか?」
 問いには沈黙が返り、ロイは目が慣れるのを数十秒ほど待った。しっくり暗闇になじんだ目に、ベッドに腰掛ける人の姿が映る。
「座るぞ」
 この分では承諾を待つだけ無駄だ。二つ並んだベッドの一つに腰を下ろした。
 そのままじっくりと待つ。これは待っていい。待たなければいけない。重い口が開くまで。
 静かな息遣いを除いては無音の室内で、階下から音が伝わってくる。メリッサが食器を洗っている。さっき「今夜はこちらに泊まります」と言っていたから、もうしばらく音は聞こえるだろう。何もかもが無音より、少しは心が安らぐ気がした。


 やがてヒューズが話し出した。
 授業参観に行ったこと。授業の内容。兄弟の様子。中身は微笑ましくても話す口ぶりがどうにも重かった。
 そして、話は確信に入る。
 一人の少年が、言ったのだという。
 人殺しだと。お前の親は人殺しなのだと。
「あそこにそのままはいられなかったから、二人を連れて帰った。途中で、俺はどうなのかって聞かれた。していないって答えた」
 ごめん、と謝る声が、普段のヒューズが幻だったかのようにか細い。
「言えなかったんだ……本当のことを言えなかった。……逃げた」
 暗闇でヒューズが頭を抱えたのがわかった。
 卑怯だった。自分にもこどもたちにもお前にも嘘をついたと、搾り出すようにして吐いた。
「謝る必要は無い。もしお前が正直に答えていたら、ショックを上乗りすることになったんだ」
 誰も彼もが”そう”なのだと知ったら、幼いこどもには衝撃が過ぎるだろう。
「気にしなくていい」
 本気でそう思ったから、そう言った。ヒューズは首を振ったが、ロイの本心だった。
 たいていの人間は、こどもの前で自らの日陰の部分を晒すのは嫌なものだ。ましてや、あの場合ならロイがヒューズの立場でも嘘をつく。保身がだいぶ含まれていたにせよ、ヒューズのしたことは正しかったのだ。
「ロイ、俺は……」
「いいんだよ、ヒューズ。そうしてくれて助かった。あとは私の問題だ」
 沈み込んだヒューズの肩をぽんと叩いてロイは立ち上がった。スプリングが軋んだ。


 ヒューズに背を向け、自室に入った。窓から差し込む月の光で室内はうっすらと照らされている。冷え冷えとして見えた。
 きちんと整えられたベッドに腰を下ろす。スプリングが軋んだ。
 心も、軋む。
 ずっと考えないでいたことを、一気に突きつけられた。 
 何故、彼らを引き取ったのだろう。いずれはこうなることがわかっていたのに。
 糾弾したという少年の存在は決してイレギュラーではない。遅かれ早かれ、こどもたちには知れたことだ。彼らが事実を知るのが10歳であれ、15歳であれ、20歳であれ、英雄という名の裏に何があるかには変わりがない。
 何故、引き取った。
 ホークアイには贖罪ではないと言った。贖える罪ではないから。きっかけは、純粋な好奇心で。そして、ただただ愛しく思ったから――。
 本当に、それだけか?
 命を育てることで、取り戻せないものを埋めるつもりではなかったのか?あの温かい手で、少しずつ清められていく気がしたのではなかったか?
 悪夢にうなされて目覚めたとき、幼いこどもが――エドワードが必死につかまえてくれて、それで許された気がしていなかった?
 彼らを浄化装置にしてはいなかったと言い切れるのか。
 とんだ茶番だ。何が家族だ。何が父と呼んでほしいだ。そんな資格などない。
 こどもを引き取るだなんて。育てるだなんて。どうして自分に出来ると思ったのだ。いったいどうして。
 どこでゆがみは生じたのだろう。
 最初からゆがんでいたのかもしれない。最初から。ずっと。
 ホーエンハイムに興味を持っていたから。彼の息子だから。あの錬成陣を知っていたから。実力があったから。可能性があったから。
 能力を伸ばす環境を提供出来ることを、これ幸いと利用した。何かを支えにしたかった。なんでもいい。こどもがいい。汚いことを知らないこどもがいい。抱きしめて、何の欲もわかずに温かさだけ感じることが出来るこどもがいい。


『……夢を見るのです。悪夢を。この手で何の罪もない人々の命を奪ったときのことを』
『君だけではない。私も戦地から戻って以来、何度も夢を見た。皆そうだ』
『マスタング中佐もですか?』
『なんだね、私が悪夢にうなされるなんて想像がつかないかな』
『いえ、そういうわけではありませんが……中佐は夢を見たあと、どのような気持ちになりますか?』
『どんな気持ちか……そうだな、自分の中の狂ったところが、だんだん正しい状態に戻っていくような気分だろうか。恐怖と不安、悔恨の情が押し寄せてきて、あの内乱が決して正常なものじゃなかったことを教えてくれるんだ』


 本当に、狂った心は元に戻ったのだろうか。