blind summer fish 64

 ヒューズを呼びに行かせると、ハボックは手ぶらで帰って来た。仮眠室にはいなかったという。
 眠れずに庭か、それとも仮眠室か、食堂か。いずれにせよ司令部内にいると思っていたら、受付から言付けを預かったという連絡があった。任務へ戻ったのだろう。眠れないのなら動いていたほうが気がまぎれる。
 ヒューズに比べたら己は薄情なのかもしれないとロイは思った。
 眠れるはずがない、眠るつもりもなかったはずが、結局ホットミルクを飲み干したあと、ソファーで眠ってしまった。時間にすればほんの少し、三十分にも満たない短い間だったが、とにかく眠った。そして、夢を見た。


 幼いこどもが歩いていた。
 細々と火が焚かれ、周りに人が集まって暖を取っている。こどもはその間をふらふらとさまよっていた。裸足だ。風に煽られた火の粉が飛んでも避けようとしない。慌てて走って、こどもの擦り切れた服でちょろちょろと燃えはじめた火の粉を払った。
『向こうへ行っては危ないよ。お腹は減ってないか?あそこに行けばスープをもらえるよ』
 指し示した方角へ、こどもは興味を示さなかった。
『お父さんか、お母さんは?』
 こどもは首を横に振る。そうだ、ここは戦場の跡地だ。幼いこどもがたった一人で歩いていれば、親とはぐれたか親そのものがいなくなったかのどちらかだ。全くの愚問でしかない。
『探しているの?』
 うん、さがしてる、とそこで初めてこどもは口を開いた。
『おひさまがでたら、おかあさんがおはなししてくれなくなった。ずっとおひるねしてて、おきてくれないの。だからおとうさんさがしてる』
 お母さんのいるところへ連れて行ってくれるように頼むと、こどもは『あっち』と言ってよたよたと歩き出した。足元が覚束なかったから抱き上げて、こどもが言う方向へと進んだ。結構な距離があった。この距離を、この子は自分の足で歩いてきたのだ。
『おかあさん』
 砕けた壁にもたれて、こどもの母親は目を瞑っていた。上下しない胸、吐き出されない息。脈を測るために触れた身体はもう冷たかった。
『お母さんはもうずっとお休みしていたいんだって』
 そうなの?と見上げてくるこどもは、動かない物体となった母親にキスをすると『おとうさんさがしてくるからまってて』と言った。母親にもたらされた死というものを理解出来ないこどもに、そうと告げることは出来なかった。
 父親を探すというこどもの手伝いに割ける時間はほとんど無かった。指示を出し終えたあと、少し様子を見て来ると部下に言い残して出てきてしまったから、もう戻らなければならない。連れて帰って、行方不明者の探索班に任せたほうがよいだろう。そう考えて、こどもを抱き上げ、来た道を戻った。途中、こどもが自分の父親が軍人であることを教えてくれた。ただ、こどもには軍人というものがわからず、長い間会えなくて時々家に帰ってくる人だと認識しているようだった。本当に当ても無く、父親を探し回っていたらしい。
 軍人ならば話は早い。足取りが速くなり、最後には小走りで仮設のテントに飛び込み、こどものファミリーネームを探索班に告げてこどもを預けた。
 しばらくして、撤収作業の段取りを組み直していたところに、こどもがいなくなったという報告が寄せられた。少佐がだいぶ気にかけていらっしゃったようですので、と申し訳なさそうに添えられたが、他にも泣いていたり呆然として座っているだけのこどもが何十人もいるのを見て、あのこどもだけに時間を割くことは出来なかった。じきにまた戻ってくるだろう、わざわざ悪かったね、とねぎらって部下の姿を見送った。その後、こどもの告げた名前を名乗った軍人が問い合わせに来たそうだが、こどもが見つかったかどうかまではわからなかった。


 司令室をのぞくと、数人の部下が忙しそうに歩き回っていた。診療所の地下にあった死体から派生した事件以外にも抱えている案件はいくつもある。テロリストの活動が沈静化している時期の軍部は単なる苦情処理係と化す。いざというときの市民からの協力――命令で従わせるよりも向こうからの好意で従ってもらったほうがずっと効率がいい――を取り付けるためにも、苦情に対する常日頃の素早い対応は欠かせない。
 さしあたっては、診察所の視察が一番大きな仕事であり、地下を調べるために建て直しにまわす費用の概算すら出来ない状況の、あの診療所以外の視察は進められる状況にある。数でいったらロイ自身で見て回れないほどではない少なさだが、イーストシティから離れた場所にある二、三の診療所にまで出向く時間はない。ロイはこれまでの観察の結果、細部まできっちりと調査出来る人間をピックアップして調査に向かわせた。もう一つ階級が上がれば自由に動かせる人員も増えるものを。日常の任務レベルでの裁量権の狭さもまた歯がゆい。
 人数が減った分、残った部下に負担がかかる。たいていのんびりとしているハボックも、机に向かって必死に何かを書いており、紙の端まで字で埋め尽くしてからペンを置いて大きく伸びをした。仕事に一区切りついたのだろう。
「ああ、中佐。ちょうどよかった、これのチェックお願いします」
 差し出されたのは定期的な市内査察の報告書と、あとはあの診療所のある近辺の三十年前と現在の地図だった。診療所の建物そのものの設計図と照らし合わせて、周りに何か手がかりとなる変化を見つけようというのだ。
「何か見つかったか?」
 査察報告のほうに目を通しながら尋ねると、ハボックは肩をすくめた。
「さっき資料室で二枚とも広げて見比べてみましたけどね、敷地が一部変わった以外はなんにも。その狭まった分にヒントがあるならいいんですけど」
 ハボックが煙草を一本取り出して口にくわえた。火をつけかけて、慌てて離す。
「っと。すいません。ここじゃ吸っちゃいけねえんだった」
「構わん。許す」
「え?でも、司令室内じゃ駄目っつったの、中佐でしょーが」
 確かに、司令室では吸うなという無茶な命令を出したのはロイだった。においが移るから。こどもたちが嫌がるだろうから。けれど。
「一日くらいはいいさ。今日は司令部に泊り込みだ」
「……そんなやばいんですか?あれ……」
 常に司令部に待機していなければならないほど物理的な危険が迫っているのか、それとも一晩中机に向かわないと処理出来ないほどの情報なりなんなりがあるのか。地下室の死体の件のことを持ち出したハボックに、ロイは肩をすくめてみせた。
 本当の理由など言えるはずがない。事件にかこつけて泊り込むのなら信憑性もある。
「やばい、というほどではないがな。ヒューズが戻ってきたら確認しなければならないことが山積だ。……お前たちに残業させるつもりはないから安心しろ」
 安心するかと思ったハボックは、ロイの予想に反して渋面を作った。
「ってねー、俺これから仮眠少しとったらブレダと交替っす」
「……ああ、すまん。そうだったな」
 忘れてたんすね、と通常の業務のほかにドクター・タガートの護衛も引き受けているハボックは恨めしそうにロイを見る。
「本当にすまない」
 重ねて謝ると、ハボックは何かとんでもないことを聞いたとでもいうように目を見開き、後ずさる。
「中佐……朝も思いましたけど、なんか悪いもん食いましたか?腹くだしたんですか?」
 どこまで本気なのかわからない心配の仕方に、ロイは「もういいから行け」と部下を追い払った。結局、煙草のにおいが軍服に付く心配は無くなってしまった。