blind summer fish 65

『ここで待っていろ』
 彼はそう言った。ホークアイの使命は彼の命を守ることだ。この辺一帯は殲滅が終わったとはいえ、戦場の真っ只中を一人で行かせるわけにはいかない。当然、後について歩こうとした。他にもともにいる下士官以下が動こうとする。
 しかし彼は重ねて言った。
『私一人で動くようにと上からの命令だ。ここで待て』
 命令というよりも懇願だった。誰もがわかっていた。彼一人で動けという命令は嘘だと。
 ここまで来て、まだ一人で罪を被ろうというのか。
 向かう先の地形図が頭に思い浮かんだ。切り立った崖に囲まれた小さな集落で、わかっている限りでは出入り出来る箇所は一つのみ。
 何をしに行くのか、今さら問うまでもない。
 全てを燃やすのだ。


 久しぶりに夢を見た。めったに見ない夢はたいてい赤く染まっている。炎の赤。血の紅。おそらく上官も同じような夢を見たことが幾度もあるだろう。上官に限らず、あの場にいたものは誰も。繰り返し、繰り返し。
 そんな朝はもがくようにして起きることが多い。寝汗を流すためにシャワーを浴び、いつもより念入りに髪を梳かし、後れ毛が出ないようにきっちりと束ねて止める。何も取り乱してはいないのだと自分に言い聞かせ、たっぷりとミルクを入れたコーヒーにあんずのジャムを乗せたトースト、チーズを混ぜたオムレツにざっくりとトマトを切って添えて、ゆっくりと食べる。喉を通らなくても時間をかけ、全てお腹に収める。余裕のある朝を過ごし、薄く化粧をほどこして家を出る。化粧は女の戦装束とはよく言ったものだ。
 そして司令部へ出てみれば、その時間にはいるはずのない上官がいた。明らかに夜通し寝ずにいた顔だ。枕と毛布とミルクを与えて寝かせたが、いったい何が起きたのだろう。
 おかしいなと思いながら、ホークアイは上官の家の前に立っていた。頼まれて着替えを取りに来たものの、泊り込むほどのめまぐるしい忙しさではない。朝が早かったこと、夜に司令部につめることからして、上官が家に帰りたくないということは容易にわかる。
 メリッサとの間に何か険悪なものが生じたとは考えにくい。ということは、原因は一つしかない。
 こどもたちだ。
 それも、傍から見れば他愛のないような諍いではなく、もっと深刻な何か。
 今朝の上官の様子を思い出すと不安が増してくる。
 普段なら家々を取り巻く道を行く人がいるのに誰もいない。小鳥のさえずりも今は無い。さっきまで吹いていた風もぴたりと止んだ。
 ベルの音は、やけに響いた。
 返事は無い。
 少しためらって、結局もう一度押した。かすかに部屋のドアの軋みが聞こえて、小さな足音がした。目の前の扉が開く。アルフォンスだった。
 不安による緊張感からぎこちなくなった笑みを浮かべたホークアイは、アルフォンスが肩をこわばらせるのを確かに見た。
 視線の先は服。深い青の上下に軍靴。
 アルフォンスは何も言わなかった。ホークアイは何も言えなかった。
 小さなこどもの目に映るのは恐怖だ。あのときに見た。同じだ。逃げ出したくなった。足が動かない。
「しょういも、せんそうにいったの?」
 唐突な問いであったが、どこか予想できていたのかもしれない。
 足は動かなかったが、首から上は動いた。頷いた。それが本当のことだから。
 この子に嘘をつきたくなかった。
「ちゅうさも、しょういも好き。ヒューズさんも。どうしたらいいのか、よくわかんないけど……でも、うそはいや。おしえてくれるなら、ホントのことがいいんだ」
 嘘じゃない。本当のことを言った。戦争へ行って、そして、人を――。
 このことだったのだ。今朝の彼の様子がおかしかった原因は。
 それなら、どうして私を?何故私をこの場に寄越すのですか?
 同じ問いを投げかけられても何ら不思議ではないのに。
 ふと、今朝に見た夢が脳裏に浮かんだ。彼が一人で向かったわけが今わかった。罪を一人でかぶるためだけじゃない。
 見られるのが怖かったのだ。苦楽も地獄をも共にした部下にさえ。
 そして彼はこどもたちを前に、逃げた。
 自然と膝が自重に傾いだ。玄関口にぺたりと座り込む。覚悟など出来てはいなかった。だってほら、こうして親しく愛しいこどもに問いかけられただけで、こんなにも揺らいでいる。身近でない、関係の遠い又は無関係の人々の視線だったから耐えられたのだということを、この瞬間に思い知らされた。
 あんなに強いと思っていた人は、もっとずっと弱い人間だった。自分も例外ではない。どんなに理屈をつけても、正当たる理由は、到底持ちえないのだから。拠り所はただ一つ。終わらせようという信念のみ。けれど、大切だと思う相手にその信念を告げられないのなら、そんなもの、何の意味もないじゃないか。
 アルフォンスはすぐそばに立っている。本当のことを知りたい一心で。
 この場で泣き崩れるのは、このこどもに対する裏切りになるだろうか。
 そっと添えられた手の意味を知るのが、怖い。