blind summer fish 66

 それはある種、異様な光景だったかもしれない。というよりも奇妙か。
 ただ、ちょうどその時間、その場所を通る人はいなかったし、もしいたとしてもホークアイには関係なかった。気づく余裕もない。
 触れられた小さな手と、一言。「泣いちゃやだ」という小さな声だけが、彼女に認識出来るすべてだった。
 視界が歪む。
 言葉が引き金になったみたいに、視界は歪みを増してゆく。
 卑怯だ、泣くなんて。これではまるでこどもだ。泣いて許してもらえる恩恵を受けることのできるこども。
 駄目だ。泣きやめ。今すぐに。
 けれど、意思に反して涙は頬を伝っていく。そして、温かい手がそれをぬぐう。
「……ごめんなさい、だから、なかないで?」
 何故あなたが謝るの?
 アルフォンスが謝る必要はないし、自分には慰めを受ける権利がない。
 ホークアイが顔をそむけると、アルフォンスは顔をのぞきこんでくる。もっとそむけると、わざわざ横に回りこんでのぞいてきた。見ないでほしいのに。
「ごめんね、しょうい。ごめんなさい。ボク、しょういを泣かせたかったんじゃないんだ」
 何度も何度も「ごめんなさい」と「泣かないで」を繰り返す。そのたびに、止めようとする涙が止まらなくなる。
 だめだ。本当に、だめだ。あなたの前で泣く権利なんてないのに。
 人の家の玄関前に座り込んで、小さなこどもの前で泣いて、泣きやめなくて、こっちが謝らなければならないのに、ただ泣くことだけしか出来ない。こんなに弱くなんてなかったはず。もっと強かったはず。覚悟をしたはず。
 理想はあくまでも理想でしかなく、現実はもっとずっとみっともないものだった。
 幼い子の目に恐怖が浮かぶのが怖い。責められるのが怖い。それだけアルフォンスを受け入れてしまっているという事実と、そのアルフォンスに言い訳すら出来ないという事実をまさに今、突きつけられている。嗚咽を堪えて、ようやく開いた口からも何も出てこない。
 謝るといっても何に、誰に謝るというのだろう。
 軍人がどういうものであるかを教えなかったこと。結果的にだますことになってしまったこと。いま、何も答えられないこと。応えられないこと。いろんなことを、アルフォンスに。
 ――あの子にも謝れなかった。
 命を奪った子供たちに何も謝っていない。所詮は偽善に過ぎなくなってしまうから。そう思って贖罪の気持ちは胸に秘めたままで今日まで来た。けれど、偽善だと自分に言い訳するのは単なる卑怯じゃないのか。
 許しを得るために謝るのは我が儘だ。許しを得るためでなくとも、謝ることは自分勝手なことだ。いくら謝ろうと、いくら悔いようとも、もう戻ってはこないのだから。
 けれど、本当は。心から、あの子たちへ。あの人たちへ。ごめんなさい、と。ひいては自分自身に救いを与えることになっても。
 言いたかった。ずっと。
「……い」
 声がかすれた。もう一度。
「っ、……さい」
 ほら、もう一度。
「ご、めん、な、さい」
 ごめんなさい。
 声が震えた。でも言った。言ってしまった。ずっと、ずっと堪えていたものを、外に出してしまった。
 隣に立っていたこどもがホークアイの手を取った。
「泣かないで、ね?」
 射撃で一部が硬くなった手をやわらかい手が包む。
「つめたくない。……あったかい」
 呟いたアルフォンスは、ぎゅっとしがみついてきた。


「いらっしゃい、リザさん」
 唐突にかけられた声に反応出来なかった。もう一度呼びかけられてようやく、アルフォンスを抱きしめたままぼんやりと声の主を見上げる。
「ごめんなさいね。裏庭にいて気づかなかったものだから」
 お茶をいかが?と誘うメリッサは土の付いた軍手を玄関脇に置き、二人を困ったような、痛ましいような、ほっとしたような、複雑な表情で見つめた。
「あの、着替えを取ってくるようにと……」
 どう説明したらいいかわからず、とりあえずここへ来た元々の用件を思い出して告げたが、メリッサは特に何も言わなかった。玄関先に軍服姿のままの知人がぺたりと座り込んで涙を流しながらこどもを抱きしめているにも関わらず、だ。何があったのかわかったのかもしれない。多分、昨日何があって、どうして中佐ではなく自分が来て、ここでこうしているか。
 石畳に座り込んで、足がこわばっている。泣いてしまったせいか、目も腫れぼったい。ホークアイは不器用に抱きしめ返したアルフォンスの背中から腕を解いてみたが、アルフォンスは離れるのがいやだとばかりにますますしがみついてくる。うまく回らない頭でどうしようかと思案して、意を決して小さな身体を抱え上げた。首にしがみついてくる力と身体が温かい。
 人の身体は、こんなにも温かい。全てを包みこむ、温かさを持っている。
 本能的に、許されたのだと感じた。
 傲慢にも、自分勝手にも、そう思った。
 記憶の中の、炎の中の、殺すために立ち向かってきた少年の顔は今でもはっきり覚えている。憎しみと生への執着に彩られた姿に臆し、手に感触を残さないための武器を選んだ。
 間近で恐怖にゆがむ顔を見ないように。
 戦場で次第に麻痺していった感覚は、銃後の世界に戻ればゆっくりと溶けてくる。少年の目には恐怖があった。生への執着でも上書きしきれなかった死への恐怖。
 アルフォンスはあの少年ではない。アルフォンスがこうやって触れてくれても、あの少年が許してくれたわけではない。そもそも許しを請える罪ではない。与えられるとしたら罰だけだ。
 これからもあの少年を忘れることはないだろう。
 でも。それでも。
 今この手の中には、確かに救いが与えられた。