blind summer fish 68

「でも、私は……わからないでもないんです、中佐のこと」

 所詮、彼も二十歳を少し過ぎた若者でしかない。
 もしこの国が周りを軍事大国に囲まれていなかったら、今頃普通の若者だったはずだ。研究が苦にならないタイプだから学者になっていたかもしれない。人より少し有能で、理想に燃え、大いなる挫折を味わって中佐は今のロイ・マスタングとなった。わからないでもないのだ。
 だから、ホークアイの胸の内にあるのは、怒りと悲しみ。
 向かいに座る年上の女性は、一旦何かを言いかけたが思案するように口ごもった。アルフォンスの寝息が聞こえる。ゆったりと上下するお腹の動きを見つめているうち、ゆっくりと時が過ぎていく。いまここに、争いがないから生まれる、貴重な時間だ。
「時々忘れてしまうのだけれど……あの方はまだ二十歳そこそこなのよね。リザさん、貴女にいたっては、ついこの間まで士官学校の生徒だった」
「卒業してからもうだいぶ経ちます」
 ふふ、とメリッサは目を細める。
「若い人にとって、時間が流れるのは早いのね。一年や二年など、私にとっては『つい、この間』ですよ。貴女が隣に越してきて挨拶に来てくれたとき、なんて若くて綺麗なお嬢さんだろう、と思ったわ。卒業してすぐに東方に来て、てっきり受付か通信課かどこかの事務方にお勤めだと誤解して……各地方の司令部を転々として来た後だったなんて、思いもしなかった。多分、貴女も、マスタング中佐も、同年代の人たちよりずっといろいろなことを経験なさっているから。私はもっと深くて広い様々なことにお一人で対処出来るのだと思いこんでいたのよ。おかしいわね、私自身、貴女方の三倍以上の長さを生きていて、出来ないことのほうがずっと多いのに」
 彼女の白髪は生きてきた時間の長さを表し、刻まれた皺は微笑みと悲しみと苦悩と安らぎを物語っている。
「私は娘を一人で育てたわけではなかった。娘が幼い頃は夫がいたし、アームストロングの本家でもよくしていただいた。近所の方も何かと助けてくれて……周りの助けがあったから私は娘を育てられたの。娘と周りの方たちが私を母親にしてくれた」
 時々ふと思い出すのだけれど、情けないことにいつもは忘れてしまうのよ。
 メリッサは自嘲気味に肩をすくめた。いつも上品な彼女にしてはお茶目な仕草だった。
「同じだわ。中佐だって、一人で父親になれるわけではないものね」
 こどもが出来て、こどもを育て、こどもとともに成長して行く。生まれつき父親や母親である人間などいない。みんな手探りだ。わからないことだらけの中で、心と身体で知って、先達に教えを乞うて、自分で学んで、こどもの親になる。親という、人になる。
「私から中佐に話してみましょう」
 多分それは、ありがたい申し出なのだろう。彼女ならきっと、生きてきた時間の分だけ説得力のある理由をもって、マスタングに意見することが出来る。マスタングやホークアイなど彼女にとってみればほんの若造だ。
 けれど違う。彼女が立っているのは、もっと安定していて温かくてやわらかい場所だから。
 マスタングがそれを求めてあがいているのが、同じところにいる自分には痛いほどわかるから。
「いえ、……私が。私が中佐に話します」
 意を決して告げると、メリッサは苦い微笑みを漏らして「そうね」と頷いた。それに続けて「でも先ほどのことに関しては話は別です。あとで一発殴っておやりなさい」と物騒なことを言った。
 少し展望が開けた、とホークアイが喜んだところで窓の外が光った。稲光かと空を見上げたが、途方も無く大きな太鼓を叩くような音はしない。それにもう少し、地面に近かったような気がする。
 またあるだろうかと雲行きを危ぶんだとき。バタン、と何かが倒れる音がした。とても近くで。
 アルフォンスを抱いたままで外に出た。居間から青白い光の見えたほうへ急ぐ。
 倒れていたのは大きなはしご。
 そして、その下には――。
「エドワードくん!?」
 目を閉じて倒れ伏す姿はまるで、精巧に作られた人形のようだ。

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