blind summer fish 69


 ハボックが残していった地図と報告書を持って執務室に戻りかけ、思いなおして反対の方角へと向かった。途中で部下の一人とすれ違う。
「資料室にいるから、何かあったら人を寄越してくれ」
「了解しました」
 ロイの目から見て可もなく不可もなく、といった青年は、ロイと入れ替わりに司令室へと入っていく。
 西部の士官学校を卒業して数年はそのまま西方司令部に留まり、この東方に着任したのはちょうどロイと同じ時期だそうだ。ドラクマに面した北部、きな臭いアエルゴに隣する南部、内乱のあった東部と違い、西部は比較的治安が安定しているから、彼には実戦経験がほとんどない。だからなのか、青年は少しのんびりとしていて、こっちの希望を察して動いてくれるタイプの部下を必要とするロイの期待からははずれている。ただ、ブレダが「なかなか気持ちの良い奴ですよ」と言っていたので、悪い印象はなかった。
 そのブレダが戻ってくるまでは資料室にいようと決めて、薄暗い無人の部屋に入る。
 定期的に清掃はされているが、それでもやはり人の出入りが極めて少ないせいか、はたまた大量の書物のせいなのか、室内は埃っぽい。ロイは四人掛けのテーブルに紙の束を下ろすと窓を開け放した。すうっと吹き込んできた風がすぐに止む。窓の外はさっきまで木の揺れる音がしたのに、ぴたりと止まった。遠くの空にわずかに雲が出てきたが、司令部の上空は晴れ晴れとしていて日が燦燦と降り注いでいる。風が吹かないのなら今日は暑くなりそうだ。
 テーブルには誰かが棚に戻し忘れた本が一冊、置かれたままだった。最近ロイには入室の許可を出した覚えはなく、となれば誰か他の者に許可を得た人間が入ったのだろう。普段なら特に気には留めないが、今回は少し引っかかった。
 タイトルに「下水道調査書」とある。今年からさかのぼって三十年間の地下の調査資料。ぱらぱらとめくってみると、途中で不自然にページをたぐるリズムが崩れた。中が数枚、抜けている。この調査書が作られた年月日は今年の日付だから本が古くて自然とはずれたわけではない。明らかに人為的なものだ。
 今度は目次を開く。地図を探す。しかし各地区の小単位のブロックで区切られたものしかなく、肝心の求める箇所は無かった。ひょっとしたら抜けているページに載っていたのかもしれない。
 棚の間を歩いて地図を探した。大きな一枚地図がいくつも丸められて隅の傘立てに似た箱に入れられている。順番に広げて確認したが目的のものはない。本の形になっている可能性がある。棚を上から順番に探した。多分、ここに部下を呼んだほうが話は早い。けれど頭が回らなかった。漫然と上から下へ、左から右へと視線を移動していく。頭の中で一つの可能性が形を作りつつある。それをいきなり突きつけられた現実が厚く覆って邪魔をする。並べられた本。床に積み重なった本。埃の匂い。本の匂い。ここではないどこかで、図書館でもないどこかで、これと似たものを見た。いや、もっと古めかしくて圧倒する本とそれを収める棚。
『父さんのしょさいを見てきませんか?』
『おやじがかいた本はぜんぶでなんさつでしょーかっ?』
 ホーエンハイムの書斎。世に出なかった彼の著書。彼の妻への本。彼の残したこどもたち。
『あんた、たにんじゃないだろ?』
 楽しそうに笑っていた。たにんじゃないんだからと笑っていた。
 これは受け入れてくれたこどもたちへの裏切りだ。せめて、きちんと、自分の口から説明しなければならないのに。もう一つ、大切な部下――大切な人への裏切り。ホークアイをあの家へ行かせたら起こるだろうことを予測していないわけではなかったのに。
 あまりにも卑小。あまりにも卑怯。
 気がつけば本棚を背に、ずるずると座り込んでいた。極々うっすらと積もった埃が空中に舞う。軍服に引っかかったのか、本が数冊そばに落ちた。本に積もった埃がさらに舞う。咳き込んだ。静寂の中、聞き苦しい咳が響く。止まらない。口元を押さえ、腹に力を入れるが逆効果だった。反動で余計に大きな咳が出る。幾度も繰り返すと喉の奥で変な音がした。胃の腑からせり上がってくるよう。
 吐く寸前まで行って、ようやく咳は止まった。視界がぼやけている。向かいの棚にある本の背表紙が歪んで見えた。
 言わなければならないだろう。話さなくてはいけないだろう。それが、せめてもの謝罪。
 足を投げ出して本棚にもたれた。見上げれば灰色の天井は薄汚れている。窓から風が再び吹き込んできた。少しずつ、少しずつ、強くなる。じわじわと空気が湿り気を帯びてくる。
 嵐になるのかもしれない。遠くの空に雲があった。風が強くなればこっちまで運ばれてくる。
 忍び寄る湿った空気の中、廊下を走るうるさい足音が近づいてきた。
 許可も取らずに勢いよく扉を開く。
「大変です! エドワードが!」
 嵐、到来。

 <<  >>