blind summer fish 70

 走った。何事かと振り返る者達に構わず、廊下を抜け、階段を飛び降り、正面玄関から門までの道のりすら厭わしく、地面を蹴る。走る。門番にいつもの挨拶もせず、顔なじみの店主たちの声もすべて無視し、告げられた病院へと。もつれそうになる足を叱咤し、苦しさを訴える気管に苛立ちを覚え、走る。そう、車。病院が通りに面していれば使えたのに。狭い路地を徒歩で抜けたほうが早いなんて。病院の位置すら恨めしい。路地裏を縫って、ただひたすらに走る。
 病院の窓口。ダン!と両手をつき、ろくに言葉も口に出来ない状態で受付の女性を見つめる。何事かと思ったろう。
 彼女が知り合いで、ロイがここにこうして走ってきたわけに思い当たらなければ、警備に取り押さえられていたかもしれない。
「息子さんなら三階の南側つきあたりの部屋です」
 かろうじて礼を言うと、「廊下は走らないでください。他の患者さんの迷惑になります」とぴしゃりと釘を
刺された。だから早足で歩いた。ほとんど小走りの状態。
 階段で人とぶつかりそうになり、三階の廊下ではワゴンを倒しそうになった。倒しそうになった、どころか倒していた。後ろでメスとか針とか多分そういうものが散らばる音やトレイのひっくり返ったぐわんぐわんという独特の音がしたから。「危ないでしょう!」と叱られても謝る時間すら惜しかった。廊下を曲がる。つきあたり。なんで階段から一番遠い部屋なんだ。あての無い怒りに任せ、乱暴に引き戸を開ける。
 エドワード!
 振り向いたのはホークアイだった。アルフォンスを抱きかかえている。彼女が退くと影になっていたエドワードが見えた。白い大きなベッドに不釣合いなほど小さな体を横たえている。血の気が薄く、目は閉じたままだ。頭には包帯が幾重にも巻かれていて、上掛けに力なく置かれている腕には無機質な管がつながっている。ところどころに擦り傷。
 おそるおそる近づくと、わずかに上掛けが上下しているのがわかった。なんの表情も浮かべず、ただ無心に眠っている姿を見るのは初めてだった。まるでエドワードじゃないみたいだった。彼はもっと色々な顔をする。笑ったり怒ったり泣いたり。寝ているときだって楽しそうだったり悲しそうだったりつまらなそうだったり。嫌だ、こんなの。
 容態はどうだとか、何があったのかとか、聞きたいこと、聞くべきことはいっぱいあった。けれど、そういうものは頭の中でぐるぐると渦巻くだけで、最初に口から零れたのは一言。
「ごめん」
だった。
 ホークアイは何も言わなかった。アルフォンスも何も言わなかった。エドワードは何も言えなかった。聞こえてすらいないのだから。
 それから、自分がこどもに戻ったみたいに、お父さんやお母さんに謝るみたいに、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返した。まるで針の壊れたレコードだ。ぎいぎいと耳障りな音を立てるレコードのように、かすれた声でごめんなさいと繰り返す。エドワードに。アルフォンスに。ホークアイに。いま立つ大地の下に眠る人たちに。
 わかっている。謝ることでは誰も救われないことなんて。取り返しなどつかない。もう元には戻せない。単なる自己満足。許してほしいわけではない。
 ごめんなさい。
 でも許してほしいのかもしれない。都合よくも。自分勝手にも。怖がられて嫌われたのだとしたら、もう一度好きになってほしい。謝れば、また自分を必要としてくれるかもしれない。
 ごめんなさい。
 でも謝ることしか出来ないから。
 ごめんなさい。
 本当に、これしか言えることがないから。
 ごめんなさい。
 言葉は、病院の白い壁と天井にぶつかって、響いて、消えた。

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