blind summer fish 72

 手につかない仕事を前に、判子を押せばいいだけの書類を積んで、機械的に片付けていく。そのうちブレダが来るだろう。いらなくなった紙の裏に「地図がない」と書き付けた。資料室で思いついた事件の手がかりだ。何に引っかかっていたのか、よくは覚えていない。ただ、何かの地図がなかったことが気にかかったはず。決して事件の解決をおろそかにしてはいけない。仕事に支障を来たすわけにはいかない。
 すでに支障は出ているけれど。
 窓の外は強い風が吹いていた。辺り一帯はすでに灰色の雲の下だ。湿り気を帯びた空気が勢いを持って窓を叩く。ヒューズはこの天気の中、どこを歩いているのだろう。そろそろ雨宿りが必要になりそうだ。
 降って来た。ぽつん、とガラスにぶつかった雨はやがて、騒々しい音を立てて地面へと降り注ぐ。
 下町ならば雨をしのぐところはいくらでもあった。午後も三時、四時を回れば酒場も看板を出し始める。ただ、ヒューズが沈んだ気持ちを酒で奮い立たせるとは思えなかった。基本的に真面目な男だ、ひょっとしたら聞き込みを続けているかもしれない。
 いつか必ず来るはずの試練を、今ヒューズがどう受け止めているのかを知りたいと思うのはわがままだろうか、とロイは空を見上げた。
 病院でのことだった。まだ眠っているエドワードを残し、アルフォンスを抱いたホークアイとともに病室を出たところで、メリッサに呼び止められた。
『中佐、お話があります』
 思い出すだけで背筋が伸びる思いだ。何を言われるかはわかっていたし、もう何を返すかは決まっていた。それが伝わったのだろう、メリッサはまったくためらわなかったし、話を長引かせることもしなかった。ただ、あの穏やかな声で、淡々とロイの不誠実さをつきつけた。
 最後にメリッサはこう言った。
『わたくしはあの子たちのことが好きです。リザさんのことも好きよ。そして、中佐。貴方のことも好き。大切に思っています。だから、そんなふうに、全てから捨てられる覚悟をしたような目をなさらないで』
 かなわない、と思った。自分など彼女から見れば三分の一の長さしか生きていない若造で、人生の後輩で、たぶん、こどもだ。彼女の厳しさと優しさは母親から受ける愛情に似ているように思う。ホークアイの強さもそれに準ずるものだろう。本当に、かなわないと思った。
 メリッサはホークアイからアルフォンスを受け取り、病室へ入って行った。エドワードが目を覚ましたらすぐに連絡をくれるそうだ。帰り道はロイが迷う間もないほどホークアイが饒舌だった。饒舌といっても普段から彼女は口数がそう多くないので、機関銃のようにまくし立てるというわけではなかったけれど、とりとめもない話題を病院から司令部までずっと話続けた。よく考えれば、彼女と仕事とも過去のこととも関係ないたわいもない会話をこんなに長いあいだ交わすことは滅多になかった。というよりもまず思い出せない。彼女が道端に生えている花をどんなふうに見ているのか、いつも昼食に何を食べているのか、どこのお店をひいきにしているのか、軍を離れたところでの交友関係、髪の手入れの仕方、使っている洗剤。
 ほとんどを知っていると思っていた彼女はまだロイの知らないところを沢山持っている。
 新鮮な驚きとともに彼女に深く感謝した。途切れることのない会話はすべて、ロイのためだ。司令部の門に着いて彼女に言った。
『君は私を甘やかしすぎる』
 彼女は言った。
『貴方に必要なことを私なりに考え、実行したまでです』
 目を見開いて立ち止まったロイを置いて、彼女はまっすぐに歩いて行った。立ち止まることなく。
「全く、神がいるならばよくまあ男女を半々に創りたもうたものだ。男が女性の二倍いたら、男の半分は滅びていただろう。そう思わないかね? ブレダ准尉」
 途中で入室してきたブレダはため息をついた。
「俺に哲学的なことを言われても答えられませんよ。だいたい男がいなけりゃ子孫を残せないでしょう。男どころか人類皆が滅びます」
「だから男は半分だけ女性に生かされるんだよ。女性の手の回る範囲でな」
「何のことだかさっぱりです。それよりエドワードが病院へ運ばれたんですってね」
「聞いたか」
「ええ。それでメリッサさんから連絡が来ました。中佐直通の電話がつながらないもんだから……ほら、受話器はずれてますよ。って、俺を睨まないでください。エドワードが目を覚ましたそうです」
「そうか。じゃあ、後を頼む」
 ブレダは肩をすくめて送り出してくれた。
 さあ、行こう。大切な人の信頼を、裏切らぬために。

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