blind summer fish 75

 朝になって部屋の中でぐずぐずとためらっていたらメリッサが呼びに来た。
「大尉がいらっしゃらないと皆が今日は朝食抜きになってしまいますよ」
 とんでもなく優しい脅しに負けて、ヒューズは朝食の席についた。メリッサ、ロイ、アルフォンス。エドワードのいないテーブルは気の抜けたシャンパンのようだった。飲めないことはないが、本来の味とは程遠い。
 空いているのはアルフォンスの向かいの席だけで、腰を下ろすと正面にアルフォンスがいる。じっと見つめられて、しかし何を言えばいいのかわからず、口をついて出たのは朝の挨拶だった。
「お、おはよう」
「おはよーございます!」
 即座に返って来た挨拶とこどもの笑顔でなんだか視界がぶれた。すかさずメリッサが「まだ寝ぼけてらっしゃるようね、顔を洗って来なさいな」と助け舟を出してくれて、なんとか朝食を終えた。ぎこちなさはぬぐえなかったが、苦い時間ではなかった。
 出勤するとき、アルフォンスとメリッサの二人ともが見送ってくれた。ロイとは司令部へ行く道の途中で分かれた。そのまま下町へ向かう。
 東方司令部のブラックリストに載っている連中が溜まり場にしているような建物を探すのが目的だ。
「ちょっと、あんた! そこのあんただよ!」
「え? 俺?」
 呼び止められて振り返るとあの食料品店の主人だった。
「あんたの友達さ、部屋探してんだろ? もう見つかったかい?」
「え、ああ、まだなんだ」
 架空の友人の部屋を探すふりをしていたことを思い出して、苦笑する。あのときは、紹介してもらった人物に一応会ってみたがいい部屋の空きは無いと聞いて早々に立ち去ったのだ。
「じゃあ、ちょうどいい。あれから部屋が見つかったそうでさ。でもあんたもその友達も連絡先がわからないってんで、近くを通ったら教えてやろうと思ってたんだよ」
 部屋探しは嘘だったので、連絡先は残していかなかった。なのに探してくれて、教えてくれようとしていたとは、本当に申し訳ないことだ。
 これはすぐ断るよりも、実際に見て条件が折り合わないことを理由に辞退したほうが少しは礼儀にかなうだろうと考えてヒューズは店主の知り合いの家へ足をのばした。
 前回もそうだったように、ドアを開けてくれたのは店主と同年代の女性だった。
「お母さん、こないだの方がいらっしゃったわよ」
 どすどすと床を踏み抜きそうな音とともに現れた老女はヒューズを上から下まで眺めて、にかっと笑った。
「ついといで」
 三人で向かった先は、老女の家からそう遠くない路地の突き当たりにある家で、古くはあるが頑丈そうに見えた。
 二階の端の部屋に通され、閉め切っていたカーテンを開け放つと日がさんさんと降り込んできた。日当たりのいい部屋だ。
 広さは一人暮らしならば申し分ない。家賃も相場より少し安い。頼めば大家が食事も用意してくれるという。本当に部屋を探しているのならば、即決するところだ。
「どうだい。いいとこだろ」
「いいねえ」
 悪い条件が見当たらないのが痛い。職場から遠い、という手は使えない。これは架空の人物が今頃どこかでもう契約していた、ということにするしかないか。
 ならばこの場は友人に知らせてまた後日、で切り抜けて……とヒューズが考えている間にも老女は話をやめない。
「こんな条件がいいとこは滅多にあるもんじゃないさね。でもまあ、住む家で一番大切なことは何かわかるかい?」
 ヒューズがわからないと首を振ると、老女は手を腰に当てて幼い子に言い聞かせるように強調した。
「頑丈さだよ、頑丈さ。揺れるのはいけないね。多少隙間風が吹こうが床が抜けようが、土台がしっかりしてれば何てこたあないんだ。そういや、あんたはどの辺に住んでるんだい? 今住んでるとこに問題があったら、あんたの分も探してあげるよ」
「いや、俺は今んとこで充分」
 というか、住んでるのはセントラルだし。
「そうかい。ついでに教えといてやろうかね。もしこの先引っ越すなら……」
 その地区だけはやめておいたほうがいい、と老女が挙げたのはあの診療所のある地域だった。偶然もあるものだ。
「あの辺りは地面がゆるいからね」
 地盤よ、地盤。老女の娘が言い直す。
「自分の足元が揺れるってのはいやなもんだよ。だからあたしはもうあの辺りには住まないと決めてるんだ」
「そんなに頻繁に地震があるんですか」
「最近はどうだか知らないけどねえ。あたしが住んでた頃は……二十歳の頃だったからね」
 ヒューズの見立てでは老女は七十前後。つまりもう五十年も前のことになる。
「もうお母さんたら、その年になって年齢ごまかしてどうするのよ。二十歳だったのは私でしょう」
 同じく自分の目を信用するなら、女性は五十前後。約三十年前のことらしい。三十年前、三十年前。ロイの情報にそんな数字がなかっただろうか。
 地盤が緩いのは、偶然なのか?
「母はああ言いますけどね、当時も頻繁にあったわけではないんですよ。一時期、常に揺れている感じで、それを頻繁というなら母も間違ってはいませんけど、いつの間にかおさまったというより、あるときを境にぴたりと止まった感じだったの」
「それは奇妙だな。俺そういう不思議な話、好きなんですよ。よかったら詳しく聞かせてもらえませんか」
 女性は、こんな話でよかったら、と快く請け負ってくれた。

 <<  >>