blind summer fish 76


 図書館のカウンターを抜け、重苦しい扉を開けると下へ階段が伸びている。半地下に設けられた閉架は書物の保存状態をよくするために定期的に空気の入れ替えが行われているが、入るとやはり埃のにおいがする。嫌いではないから苦にはならない。
 ロイとハボックは手分けして目的のものを探すことにした。
 資料室で漠然と漂っていた考えはすでにロイの頭の中で一つの手がかりを形作っている。三十年前だ。三十年前の時点よりさらに前とその後の下水道の地図と調査書。
 地上の地図に変化が見られなくとも、地下を調べれば何かが見つかるかもしれない。
 幾列もある棚の間、同じ通路のそれぞれ両端からロイとハボックは順番に背表紙をたどっていく。同じスピードで見ていけばちょうど真ん中で出会う計算になる。が、ロイが真ん中を越えて三分の二のところまで来てしまった。
「すいません、遅くて……」
「いや」
 背の高い部下を見上げれば、顔には疲労が色濃い。当然だ、無理のあるシフトを強いているのだから。信頼できる部下を多く持てないことをこういうときに悔やむことになる。理由は自分の人望の無さと臆病さにつきる。ホークアイ――彼女はすでに別格として、いま集ってくれているハボック、ブレダにロイは全幅の信頼を置いている。彼らが自分を裏切るなどとは思ってもいないし、それはもし裏切られても仕方がないという諦めを含むものでは全く無く、ただ可能性として一片たりとも考えられないのだ。
 ハボックにもブレダにも伝えたことはないがホークアイには薄々感づかれてるだろう。たぶん、彼女も含めて彼らに何かがあったら自分は見捨てられない。信頼できる部下を多く持ちたい気持ちはある。でも、それは諸刃の剣だ。人を動かし、また守ることはチェスの盤上のようにはいかない。
  すまない、と謝るとハボックは「いえいえ、気にしないでく」と途中まで言いかけて固まった。口をぽかんと開けている。どうしたのかと問えば、彼はぶんぶんと首を横に振って気持ちを落ち着かせるようにポケットから煙草を出した。
「中佐に、謝られるなんて……びっくりです」
「失敬な。それと、煙草は禁物だぞ」
「火はつけませんよ」
 目の前にぴょこんと飛び出している本を指で押し戻し、咥え煙草の部下は「これでも体力には自信があったんですけどねえ」と笑った。
「それに中佐もだいぶ疲れてんでしょう。何があったのかは聞きませんけどね」
「知りたいか?」
「……あんたのそういう、人を試すようなやり方は正直あんまり気に食わんです」
「そんなつもりはない。誤解させたのなら謝る。私は時々言葉の選び方を間違ってしまうようだ」
「ま、人間ですからね」
 今度はロイがぽかんとした。この部下は、おそらく本人は意識せずに、人の真理をつく。
「中佐?」
「いや、なかなか含蓄のあることを聞いたものだと思ったんだよ。准尉は少し休んでろ」
「平気です。とっとと探したら、あとの頭脳労働は中佐に任せられますから」
 ハボックはひとつ伸びをして、背筋をしゃんとして本棚に向き直った。相変わらず、火のつかない煙草を咥えている。
 なぜ煙草を吸うのかと聞くと、彼は集中力を乱さないでくださいよと文句を言いながら「きっかけに理由はありますけど、今はどうですかねえ」と首を傾げた。
「中佐は吸わないんすか。そういや見たことないなあ」
「吸えないわけではないが、私は煙草より酒がいい」
「その酒も最近あんまり飲んでないでしょ、チビどものために」
 そもそも出来る限り早く帰るようにしていたので、呑む機会も少なくなった。家で呑むにしても嗜む程度だ。
「エドワードが退院したらお祝いしますか」
「なら、准尉は出張料理人だな」
「……俺が作るんすか」
「エドワードもアルフォンスも喜ぶだろう」
「……まあ、いいですけど」
 こどもたちが喜ぶと聞いてハボックはまんざらでもなさそうだった。
「なんだなんだ、ハボック准尉は料理が得意なのか」
「……ヒューズ!」
 気づけば本棚に寄りかかってヒューズが立っている。階段を下りる足音は聞こえなかった。とすると、ヒューズじゃない人間が立ち聞きしていても気づかなかったことになる。幸い、たいしたことを喋ったわけではないので聞かれても困らないにしろ、気配を察知出来ないほど感覚が鈍っているとすれば問題だ。自分も、ハボックも。
 そう思ってハボックのほうをうかがえば、こちらは驚いた様子もない。気づいていたということか。相当疲れているだろうに、立派なものである。
「ヒューズ……もうちょっと存在感を出してくれ」
「それって出すもんなのかよ。足音立てなかっただけだぜ。准尉はすぐ気づいたみたいだし。なあ?」
 しかしヒューズの言葉にハボックは頷かなかった。彼の目は一点、ある背表紙のとこで止まっている。
「これでしょうかね」
 ハボックが高い身長を生かして上段から取り出したのは古い年号と確かに「下水道」の文字が見て取れる。受け取ったロイはぱらぱらとめくり、にんまりと笑った。これだ。
「ロイ、それって……」
「ああ。三十年より前の下水道の調査書だ。地上で駄目なら、地下の地図だ。ところでお前の方は? 何か収穫はあったのか」
「あったあった。じゃあ、それを開いて説明しようか」
 ヒューズも一緒に残りのものを探し、閉架の隅に置かれているテーブルの上に広げ、ヒューズの聞き込みの結果とロイの考えとをつきあわせる。ヒューズのもたらした情報は、下水道の地図と一致した。
「ちょうどいいタイミングだったな、お互い」
とヒューズはロイの手にする調査書を指した。
「まあな」
 答えつつ、ふと引っかかるものがあった。“ちょうどいいタイミング”だったのか。
 ヒューズの情報は彼が街でたまたま得てきたもの。しかし自分のほうはどうだろう。手がかりに至るまでの過程を思い浮かべてみる。
 ヒントは資料室に出しっぱなしにされていた本。不自然に抜き去られたページのあるそれと、閉架にあることを示唆する発言。
 そうだ、三十年よりさらにさかのぼって調べようと考えたのは、その一冊を見たからだった。まだぼんやりとしていた考えをまとめるきっかけになったのだ。そもそも、あんなふうにしまわれもせずに投げ出してあるのはおかしい。誰かが、意図的に置いた、と考えたほうが納得がいく。
 ダグラス・クローズは放り出された一冊と何か関係があるのではないだろうか。とすると、今のロイの行動は彼の思惑に沿ったものということになる。そして彼はおそらくロイを何がしかの姦計にはめようとしている。早計かもしれない。が、己の勘は間違ってはいないと言っている。
 考えをロイが告げると、ついこの間、初めて顔を合わせたばかりの二人はまったく同じタイミングでため息をついた。
「で、ロイ。どうするんだ?」
 ヒューズが苦笑しながら、一応といったふうに聞く。ハボックも似たようなものだ。二人ともロイの答えを知っている。
「乗ってみようじゃないか、敷かれているレールの上に」

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