blind summer fish 78

 目が覚めるとそこは自室ではなかった。無機質で無愛想な天井だが、それなりに清潔。ということは司令部の仮眠室ではない。
 腕の中の温かい存在に、ようやくここが病院で、エドワードの様子を見にきてそのまま一晩明かしてしまったことに気づいた。
 しかしいつの間にベッドに潜り込んでいたのだろう。来る前に私服に着替えていたからまだましというものだ。
「スーツは皺になってるな……ん? 起こしてしまったか」
 身じろぎしたエドワードは目を瞑ったまま首を横に振ると、ロイのシャツの胸辺りを掴んでいた手にぎゅっと力を込めた。
「もう行くの? やだ、もうちょっとここにいて」
 どうしたらいいのだ、この可愛さ。兄弟に見返りは求めていないものの、こんな言葉をくれて、こんなふうに引きとめられては、これから先も積極的な好意を期待してしまうじゃないか。求められることがこんなに嬉しいとは。
 言葉自体は女性に言われ慣れているが、そのときに楽しさとともにわずかに感じる苛立ちも、今は微塵もない。
 さいわい、出勤時刻まではまだ間がある。エドワードの可愛らしいお願いを断る必要はなかった。返事の代わりに上掛けをしっかりかけなおす。
 エドワードはむずがるようにロイの胸にすり寄った。
「ロイ、またこわいゆめ見た?」
「私が? ……覚えていないな。いつもより目覚めがすっきりしているから、そんな夢は見ていないと思うが」
「うなされてたよ。おれ、起こそうとしたけどロイは起きなくて、どうしようかなって思ってるうちにねむちゃったみたい。よくおぼえてないけど」
 すべすべした眉間にしわがよっている。エドワードは「ちがうならいいんだ」と思いだせない苛立ちからなのか、むうっと頬を膨らませた。こどもらしい、丸みをおびた頬を撫でてやれば、まるで猫みたいに気持ちよさそうに目を細める。
「すまない。心配をかけて」
「べつにいい。しんぱいするなんてかぞくなら当たり前だ」
「家族、か」
 嬉しくて、なんだかくすぐったい響きだ。得難い幸せを与えてくれる存在に、ロイは心の底から感謝をした。


 病院から私服のまま直接司令部に赴くと、待ち構えていたハボックに紙袋を渡された。
「時間ぎりぎりっすよ。これ、メリッサさんからです。朝一でお届けにみえられました」
 中身は替えの下着だった。ありがたい。
 昨日は見舞いの後は司令部に戻るかもしれないと連絡していたので届けてくれたのだろう。実際はうっかり病室で眠ってしまったが。
「昨日は病院ですか。エドワードの具合はどうです? さては、寝顔につられてそのまま一緒に寝ちゃったんでしょ。それで寝坊を?」
「いや、朝早くに目は覚めたんだが、エドワードが行っちゃやだと放してくれなくてね」
「……中佐が言うと相手がエドワードだってわかってんのに、なんかやらしいっすね……」
「馬鹿なことを言うな、ハボック。……いや、お前の性的嗜好を否定するわけではないが、うちの子たちに手を出したら消し炭にしてやるから覚悟しておけ」
「……冗談きついっすよ、発火布出すのやめてください」
 とっととシャワーをあびて着替えてくるように背を押され、ロイは朝の交代時間を迎えてざわめく司令部の廊下を軽い足取りで進む。ぐっすり眠って、ここのところの心と体の疲れもすっかり取れたようだ。これなら目下の悩みの種に関しても気持ち良く頭が回転してくれそうだと思いつつ、シャワールームに入る。
 先客がいた。
「おはようございます、マイヤー中佐」
「ああ、おはよう、マスタング中佐」
 ちょうど軍服に袖を通した中佐は、マスタングより15か20ほど年上の、特にこれといって目立った点もない男だった。しいていうなら、こんな軍服を着ているよりも、地味な背広を着て図書館にたたずんでいたほうが似合いそうだ。
 出世の道から完全にはずれているため敵という敵がおらず、彼の中隊に配属されるのは、いまいち軍になじめない、ひと癖持っている者か、本当に凡庸な者だと言われていた。しかし癖のある輩をまとめているならばそれなりの人物なのではとロイは思っていたが、目の前の男からはその手の人心掌握に長けている雰囲気も感じられない。そもそも会って言葉を交わす機会もこれまでに数えるほどしかなかった。
 ただ、その数回の会話から受ける印象は、そう悪くない。ゆっくりとした声の調子は、威圧感からはほど遠く、何よりも目上であることから来る無意味な奢りがない。若くして出世街道に乗ってしまったロイが各地の司令部で受けてきた負の視線が、この中佐からは感じられないだけでも、ロイにとってはありがたいことだった。
 逆をいえば、それだけ出世に対する意欲がなく、凡庸な人物である証のようでもある。中佐からは部下を一人借り受けるが、それ以外にも手を貸してもらうことになるのだから、あまり凡庸であっては困る、というのが正直なところだ。
 マイヤーはロイのそんな胸中を知るはずもなく、丁寧にタオルを畳んでクリーニングボックスに落とした。
「将軍から話は聞いているよ。あとで改めて将軍から引きあわせられるとは思うが、よろしく頼む」
「こちらこそ。お手をわずらわせてしまい、申し訳ありません」
「そう畏まらないでくれ」
 やはり印象は悪くない。年若いエリートに対して変に鷹揚に構えるところがないのがいい。
「そういえば昨日、病院でお見かけしたんだがどなたかお知り合いが入院でもされているのか?」
「貴方もいらしてたんですか。ええ、息子が怪我をしまして。たいしたことはないんですが、念のため」
「ああ、遠縁の子どもさんを引き取ったんだったね。年は学校に上がる頃だったかな? やんちゃな盛りだ。大変だろう」
「世の親御さんの気持ちが少しはわかるようになりましたよ。マイヤー中佐もお見舞いでいらしてたんですか?」
「いや、身内の検査入院の付添だよ。病院に一晩泊ってそのまま出勤さ。いつまで経っても病院の匂いというのは慣れないものだね。それで匂いを消したくてこうやって来たわけだ」
「独特の匂いですからね。私もこどもの頃は白衣も苦手で、病院は嫌いでした。今でもあまり好きではありませんが」
「私もだよ。特に歯科は御偉方の前に出るより緊張する」
「ははっ、気が合いますね。金輪際、虫歯はつくるまいと誓ったものですよ」
 マイヤーは自分も同じ誓いを立てたことがあると笑って「また、あとで」と去って行った。
「しまった、ファルマンについて聞きそびれた」
 遅くとも数時間後には顔をあわせることになるにせよ、面識のおそらくない相手だから、予備知識は入れておきたかったのだが。特に、彼の能力が気になる。役に立つ能力。わざわざ事前にそんなことを言うからには、ホークアイともハボックともブレダとも違うタイプの人間なのだろう。
 ロイは己の部下を高く評価している。それは将軍も知っていることだ。
 つまり、ファルマンはロイの眼鏡にかなうだけの能力を有していると将軍が判断しているということになる。しかし、それだけの人物が余所に引き抜かれることなく、閑職状態のマイヤーの下にいるのは不思議なことだった。

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