blind summer fish 9


 ホークアイ少尉は非常に有能な副官で、次の日にはメリッサ・アームストロングと会う約束を取り付けてきた。アームストロング少佐の話によればメリッサは若い頃は本家で現在の当主――つまり少佐の父の家庭教師をしていたこともあるそうで、夫と死別してからは女手一つで娘を育ててきたとのことだった。当主の家庭教師をつとめたとなれば、老後は本家から年金を貰って悠々と暮らせるはずであるのを、断って仕立物屋をして一人分の生計を立てている。かといって、アームストロング家を嫌っているのではなく、単に働かないのに給金を貰うのがいやだということだった。クリスマスにはカードの交換もしているし、少佐の母とも何度か面識がある。
 そんな基礎知識を頭に叩き込んで、ロイはホークアイとともに、メリッサの部屋の戸を叩いた。
「どちらさま?」
「リザです。マスタング中佐をお連れしました」
「ちょっと待ってね。今開けるから」
 言葉とともに扉が開き、中から現れたのは、白髪を後ろで一つにまとめた柔和な女性だった。第一印象は悪くない。
 そしてその印象が、悪くないから良いへ、良いから素晴らしいへ変わるのにはそう時間はかからなかった。
 住み込みでお願いしたいというロイの言葉に彼女はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、わたくしはここから通わせていただきます」
「私は仕事が長引いて夜中過ぎに帰ることも多いのですが」
「中佐が帰っていらっしゃるまでお待ちします」
「ご婦人に夜道を帰らせることは出来ません」
「では、出来るだけ早く帰ってらしてください」
「私の一存で帰宅とは簡単にはいかないのですよ」
 押し問答になりそうな予感に、ロイが婦人に対する評価を裏返そうとした時、婦人は微笑んで言った。
「殿方はどうしてもお仕事をこどもより優先させることがままあります。しかし、わたくしのような人間がいれば、中佐は遠慮なさって早く帰ろうと調整なさるでしょう、きっと。中佐は女性には優しい方とお見受けしました。わたくしのようなおばあちゃんでも例外ではなさそう」
 実に品の良い笑いにのせて意外なことを言う。ロイは驚いて、まじまじと女性を見つめた。仕事の忙しさはまさにロイの気になっていたことで、引き取ることを決めながらも時間のやりくりに関してはいまいち曖昧にしてしまっていたのだ。婦人はロイの甘い考えを見事に見抜いていた。かなわない、と肩を落としたロイの様子にホークアイも小さく笑いを零す。
「メリッサさん、中佐。お二人とも譲歩なさったらいかがでしょう。そういうときは私が中佐の家に寄れるようでしたら、メリッサさんを家まで送ります。お隣ですもの。もしそれも無理なら、メリッサさんは中佐の家に泊まる。お二人の意見の間を取ってみると、これがよろしいように思われるのですが」
 二人ともしばしの逡巡ののち、そうすることにしようと頷いた。
 ホークアイは「二人の意見の間を取って」と言ったが、実際その条件は住み込みとたいして変わりはない。しかしメリッサにしてみれば、ロイに仕事だけではなく家庭にも関わることを決意させればそれで充分だったのだ。ホークアイもそのことを理解して、条件を出したのだろう。
 この後、最低限これだけは出させてもらうというロイと、そんなにいただくわけにはいかないというメリッサが、給料のことでまたもめることになるのだが、それも結局ホークアイの助言でうまくまとまった。まったく有能な副官だ。
 数日後にはメリッサの助言で新たな家具や調理用具の入れ替えと買い足しが行われ、三日間の休暇を終えて出勤したロイは、夕方に自分の家に帰って目を丸くする羽目になった。朝出かけるまでそこかしこに積み上げられていた箱はすべて空になり、玄関脇にたたまれている。中身はそれぞれ、ちょうどいい具合に棚におさまって、床もきちんと片付けられていた。家からは独身男性の匂いがごっそりと取れ、どこからどう見ても引っ越してきたばかりの家族の家だった。まだこどもの闊達な声は聞こえてこないけれど、以前とはまったく違う雰囲気だ。
 しかし困ったことに、兄弟を迎え入れる準備が整ったというのに、肝心のロイの休暇が切れたために兄弟をリゼンブールまで迎えにいけない。ピナコは自分を信用して幼いこどもたちを預けてくれるのだから、ここは本人が行くべきだろう。しかし今回ばかりはホークアイも渋面でそっけなく「無理です」と言うばかりで、ロイはほとほと困り果てた。仕事のようにてきぱきと上手くはいかない。とうとう、見かねたメリッサが司令部のロイの部屋までやってきて、自分が行くと言い出した。
「いやしかし、そのようなことまでお願いするわけには……」
「何をおっしゃってるんです。いつまでも迎えに行かないことの方が不誠実ですよ、中佐。早くロックベルさんに電話をなさって、メリッサ・アームストロングが迎えに行くとお伝えになってくださいな」
 まるで少女のようにうきうきとしている婦人は、荷物が整えばすぐにでも駅に向かいそうだった。
 一回りも二回りも年上の女性に振り回されている上司の姿を、部下たちは微笑ましく思った。いくらイシュヴァールの英雄と呼ばれて出世街道を歩んでいる男といっても、まだまだ若いのだ。メリッサにとってはひよっこという名の若造なのだろう。ましてや、あの名門アームストロング家の当主を育てたのだから。
「あ、だったら俺、車で駅まで送りますよ」
 部下たちはメリッサの勝ちとみて、その中で午後は非番のハボックが見送り兼荷物持ちをかってでる。まったく、こういう行動は早いのだから、と優秀な部下たちにロイは脱力して額を机にぶつけた。
「ではお願いしようかしら。中佐、何を机と仲良くしてらっしゃるの?早くロックベルさんに電話をしてくださいな」
 それには半分だけホークアイが応えた。控えてあるロックベル家の番号を交換手に告げ、すぐさまロイへと差し出す。
 電話の向こうで「はい、ロックベル機械鎧店」というピナコの声が聞こえれば、もうロイには他に出来ることがなかった。
 この先、上へと歩き続けるには、お年を召した女性の扱い方も心得ておかなければならないとかみ締めたロイだった。