ブラサマ番外編 屋上にて


「大佐の馬鹿野郎!だいっきらい!」
といやにこどもくさいセリフを吐いて出てきてしまったものだ、とエドワードは悔いた。これでは10年前に逆戻りだ。もっと、こう、鼻で笑って無言で出てくるような、そういう態度で執務室を後にしたかった。一緒に出てきたアルフォンスが笑っている。本人は抑えているつもりだろうが、くつくつと肩が揺れているのは、他の人間にはわからなくても唯一の兄であるエドワードにとっては明らかだった。
「笑うな!」
「……えっ、笑って、ないよっ」
「その不自然な受け答えのどこが笑ってないって言うんだ」
 エドワードが咎めると、アルフォンスはばれちゃあしょうがないとばかりに盛大に笑い始めた。ひとしきり笑ったあとにどうにか言葉をつなげる。
「だ、だって、兄さんったら、あんなことで怒るなんて……!それに、兄さんに馬鹿野郎って言われたあとの大佐の顔がおっかしくって!」
 思い出しただけでも笑える、とアルフォンスは笑いの渦から這い上がることを忘れたみたいに、がっしゃがっしゃと歩きながら笑い声をあげる。もういい、こんなやつ!とエドワードは廊下をまっすぐ歩こうとしたアルフォンスを置いて右手へ曲がった。
「え?あれ、兄さん?」
 少しもしないうちに兄がいないことに気づいたのか、アルフォンスは曲がり角まで戻って兄の後姿をすぐに追ってきた。
「どこ行くの?仮眠室?」
 エドワードはちょっと怒っていたので、無言で仮眠室前を通り過ぎる。そのままずんずんと、低い身長に見合った長さの足を最大に広げて歩く。高い身長に見合った長さの足のアルフォンスは、いつもよりほんのちょっとだけペースを速めた。ここまでくれば弟にも行き先はわかるはずだ。階段の終わりには屋上への扉がある。
 立入禁止の札は、「見つからないように入れ」ということだと何かの本で読んだ。鍵は両手をぱんと合わせてちょちょいのちょいでクリア。アルフォンスも止めないので、エドワードはゆうゆうと屋上に足を踏み出した。今日もいい天気だ。地上で見上げていた太陽が、少しだけ近くなった気がする。
 これで何かお腹に入れる甘いものとかコーヒーとか紅茶とかあればいいのになあと思いながら仰向けに寝そべった。コンクリートは硬いけれど枕なんて贅沢なものはない。隣でアルフォンスがよっこらしょと親父くさい掛け声をかけて、エドワードよろしく寝転ぶ。
「あの雲、パンみたいだねえ」
「……」
「あっちにはハヤテ号がいるよ」
「……」
「あれ、ウィンリィのスパナに似てる」
「……そうだな」
「あそこのはボクの頭みたいな形だ!」
「そうだな」
「あ、あれピナコばっちゃんにそっくり」
「そうだな」
「後悔してるんでしょ」
「そうだ――って、してねえ!あれは大佐が悪いんだ!」
 ちくしょう、誘導尋問だ!と背を向けた兄に、アルフォンスはのんびりと言う。「誘導尋問ってそういうもんじゃないよ」と。
 揚げ足を取る弟なんて可愛くない。
 と弟を溺愛するエドワードは、ごろんと回転してアルフォンスに向き直ると頭から伸びているふさふさを引っ張った。
 非は一応自分にあることをエドワードは殊勝にも認めている。電話は週に一度、もしくは降車した駅毎に、連絡の取りにくいところへは行く前にやっぱり一本入れること。ロイとそう約束してからもう二年が経った。資格を取ってから一年はずっとロイを避けていて義務である定期報告すら通信部に伝言を頼んだり他の司令部で済ませたりしていたので、当初はなかなか電話もかけづらかったけれど二年もすれば慣れた。慣れというのはつまり、電話をすることに抵抗がなくなって、うっかり忘れてしまうことにもつながる。
 うっかりだったのだ。
 ついうっかりと電話も無線もない村に事前報告無しに行き、その前に滞在地として告げた町で小さな暴動が起きたのは単にタイミングが悪かったとしかいえない。通信手段のないその村で一週間を過ごし、およそ二日ほどかけてイーストシティに戻ってきたら、執務室の扉を開けた途端に、ぽかり。頭をたたかれた。アルフォンスも同じようにたたいたロイは、ちょっと痛そうに手を振った。
『二人ともそこに座りなさい』
 うっかりとはいえ約束を破ってしまったのは自分たちなので、二人ともおとなしくソファに座った。向かいに腰を下ろしたロイは、まず二人に報告を求め、そのあとに説教を始めた。滔滔と。
 こども相手に嫌味をまじえるという技を会得したロイの説教は長かった。そのうち、ぽろっと『まだまだこどもなんだから』と零したのだ。
 ロイが心配してくれているのはわかるし、まだあらゆる点で大人に及ばないこともわかる。けれどエドワードにしてみれば、色々な経緯をはさんでただの保護者と被保護者の関係ではなくなったこともあるのだから、単なるこども扱いしてほしくないのが正直なところだ。軍属になるときにこどもの甘えを捨てたつもりで、ロイもまたこれから先自分の息子だったことは忘れろと言ったけれど、現実としてエドワードはちょっとだけ権力を持ってはいても結局はこどもで、ロイが保護者であることには変わりがない。だからこそ腹が立った。いつまでもロイの腕の中から抜け出せない自分と、出させてくれないロイに。
 後者はほとんど八つ当たりであることも自覚していたエドワードは、長々と続くロイの説教にだんだん我慢がならなくなった。しまいには、お前は自分の息子にも手を出すのか!とわけのわからない怒りに到達し、いきなり立ち上がってわめいて出てきてしまった。そのあとをアルフォンスが笑いながらついてきたというわけである。
 自分たちの関係はとても特殊なものだから、何かが起きてもうっかり人に相談することは出来ないし、事情を知っていてもある意味複雑な立場に置かれているアルフォンスにそうそうぶちまけるわけにもいかない。だから少しのゆがみひずみはエドワードの内側にためこまれて、たいていはロイといるうちにどうでもよくなって消えてしまうけれど、時折はちょっとのひずみが大きくゆがんでしまって火山みたいに噴き出てしまう。二年の間にいくつかあった大噴火は、そのたびにロイのほうから治めてくれて、エドワードは己の心の小ささを認めざるを得なかった。なんでも見通されているのは、どうにもこうにもくすぐったく、また苛立ちの原因ともなるものだ。
 そういえば、あのときも『だいっきらい!』と叫んで飛び出したんだった。
 ふと幼い頃の記憶が思い浮かび、エドワードは体を起こすとあぐらをかいて、寝転んだままのアルフォンスに話し出した。
「ちっちゃいときさ、オレ、大佐に――あの頃まだ中佐だったけど、叱られて家飛び出して、でも行くとこなくて屋根に上がったんだ。空雲ってて月も出てなくて、周りの家の明かりで真っ暗じゃなかったけどなんか怖くってさ」
「そんなことがあったの?」
「おう。そんときアルは腹出してぐーすか寝てた」
 お腹出しっぱなしで寝るのは兄さんのほうだろ!と適切なつっこみが入ったけれど聞き流すことにする。
「そんでさ、上ったはいいけど今度下りられなくなってどうしようっておろおろしてたんだ」
「んー、その先の展開がわかっちゃうなー。大佐が来てくれたんだね」
「……むっかつくのが、周りを探しもしないで、まっさきに屋根の上来たらしいってことだ。普通、まず近所を探すじゃん。はしご架けて上ったわけじゃないんだから、屋根ってけっこう灯台下暗しだろ?灯台見たことないけど。なんつーか、お前の考えることなんてお見通しなんだよって感じでなー」
「まあでも、嬉しかったんでしょ?それ」
「……お前ってほんとに出来た弟だな。頼むから兄の思考を読むな」
「誉め言葉と受け取っておくよ」
 アルフォンスはそう言ってくすくすと笑う。なんだか悔しいので、そのときの自分が屋根にひょいと上がってきたロイの顔を見た途端、うえーんと泣いて抱きついたことは伏せておくことにした。というか、悔しくなくても兄のこんな恥ずかしい逸話など弟に話せるわけがない。
「だったらさ、兄さん」
 肩を震わせてくすくすやっていたアルフォンスは、屋上の入り口を見る。
「もうすぐ大佐、ここに来るかもしれないね」
 兄さんてば、ひょっとして待ってるんじゃないの?と余計なことを口にするので、エドワードはアルフォンスの頭をぽかりと叩いた。でも痛くなったのは生身の左手で、アルフォンスはのほほんと「だいじょうぶ?」などと聞いてくる。
 確かにお前のいうとおりかもしれないよ待ってるよと内心で呟くと、エドワードは諦めたように再びごろんと横になった。暗い夜空とは違う、晴れやかな青空が広がって、雲がぷかぷかと泳いでいる。こんなにも空は違うのに、見ている自分は同じことをしているのだ。あの大人が迎えに来てくれるのを待っている。

 衝撃から立ち直って、あわてふためいたロイが来るまで、あと十秒。