ブラサマロイたん親バカ編
「なんだこれは」
九時に家に帰って来たロイが洗面所に入ると湯気がもうもうと立ち込めていて、全身を写せる大きさの鏡が曇っていた。そこにはなぜか足跡が。
床と平行の方向に、小さな人が歩いた跡がある。
ロイと入れ替わりに出てきたのは朝っぱらから元気よく遊んでいてどろんこまみれになってメリッサに渋い顔で風呂場行きを命じられたエドワードだが、あのこどもが重力に逆らう術を会得しているなんて初耳だ。
「鏡の上を小人が歩いていたんだ」
風呂上りに絞りたてのグレープフルーツジュースを飲みながら真面目な顔でロイが呟くと、メリッサは「いやですわ。そんな真顔でおっしゃって」と笑ったが、ロイが本気であることに気づくと心配そうに言った。
「いくら夜勤あけとはいえ寝ぼけるにもほどがありますわよ、中佐」
寝る前の腹ごしらえをする心づもりのロイの目の前に、メリッサは至極お上品に、決してお上品ではない量の皿をばんばん並べていく。
「こんなに食べられない……」
「中佐の分だけじゃありませんよ。ハボックさーん、よろしければ休憩なさってー」
メリッサの呼びかけに、背の高い部下がタバコ無しの顔を窓の外からぬっとのぞかせた。
「アリガトーゴザイマース」
いそいそと入ってきたハボックは、テーブルの上に載せられた料理に目を輝かせている。きらきらしている。
「お前の顔を見ながら食わなきゃならんのか。だいたいなんでここにいるんだ」
ハボックは出来た部下だったので上司の失礼な一言も笑って受け流す。
「ドアの調子が悪いってメリッサさんがおっしゃってたんで、修理に来たんですよ。それで朝ご飯を御相伴に預かることになったってわけです」
「お前まだ朝飯食ってないのか」
「いや、食ってきましたけど。軽く」
「食ったのに人んちで図々しくテーブルについているわけか」
「図々しく昼ごはんも御相伴に預かる予定っスよ」
めげない部下は、このあと昼までの予定(椅子の修理、ガーデニングの手伝い、ついでに大量の洗濯の助手その他いろいろ)をずらっと並べ立てると、メリッサに勧められてスプーンとフォークを手に取った。
気持ちいいほどぱくぱく口の中に放り込んでゆくハボックとは対照的に、ロイは小分けにしたポテトサラダをもぐもぐと食べている。
きっとこのスプーンを放した途端、テーブルと仲良くごっつんこだと思うほどの眠気にさいなまれながら、ぐらぐらする頭をどうにか頬杖をついて支えた。
「なんか急ぎの仕事でもありましたっけ?」
仮眠も取れないくらい忙しかったのか、と昨日は定時で帰って今日はオフのハボックは、素晴らしい速度で皿を空にしながら尋ねた。
「……書類ためすぎて――」
「あー、わかりました。ホークアイ少尉に脅されて見張られて一睡も出来なかったと」
「聞いてくれ、ひどいんだ少尉は。わたしがちょっとあくびをして伸びをしようとしただけで、安全装置を解除する音が背後から――」
「これまでの積み重ねってやつっスね」
自業自得です、と取り付く島もない。しかしあまりにロイがグロッキーなので不憫に思ったのか、「お疲れ様でした」と優しいいたわりの言葉をかけてくれたので、ロイはそれならばと鏡の小人について聞いてみることにした。
「なあ、ハボック。小人って実在すると思うか?」
「小人?そういう症状を持つひとはいますね」
「いや、そうではなくてだな。鏡の上をこう……床に対して平行に歩くような。今、洗面所の鏡に小人の足跡がぺたぺたと五つくらいあって、鏡の途中でぽつんと途切れてるんだ」
「そりゃ、ファンタジー」
「そうか、小人は実在するのか」
そこでハボックは、本格的に上司を哀れに思ったのか、いたわるような視線を向ける。
頭は働いていないが視線の意味には気づいてロイがむっとすると、ハボックはため息をついて立ち上がり、食事の途中で中座することをメリッサに詫びて洗面所へと歩いて行った。
少しして戻ってきたハボックは、「エドかアルの仕業でしょ、あれは」と言った。
「あの子たちは小人さんだったのか。なら、あれだけ可愛いのも納得出来るというものだな」
「……俺、ホークアイ少尉に嘆願書出してもいいです。中佐にあんまり無理させないでくださいって」
今日の夜にでも一緒に風呂入ってみればわかりますって。
というハボックの言にしたがって、二人のこどもを風呂に入れることにした。頭を洗ってやって、耳に入ったー!と訴えるこどもに謝り、タオルでてるてる坊主を作って機嫌を直してもらって、あとは100まで数えたら上がっていいぞ、というと、こどもたちは声を揃えて100まで数えとおし、きゃっきゃとはしゃぎながら風呂場を出た。風邪を引かないように身体と髪を丁寧に拭いてやってパジャマを着せる。先に自分でボタンをはめ終わったエドワードが、大きな鏡に向き直った。ちょうどいい具合に表面が曇っている。
さてどうするのか、とロイが見守っていると、エドワードは右手を軽く握って、ぽんと鏡に押し付けた。スタンプの要領で、鏡には見覚えのある形の跡が残った。そこに指先で、ちょんちょんちょんと五つ、丸い跡をつける。今度は左手を軽く握って鏡にスタンプし、同じ容量で五つ丸をつけ――それを繰り返すとあっというまに五歩分の小人の足跡の出来上がり。六歩目がないのは、手が届かないから。
そうか、こうやって作ったのか。
誰が考え出したのか知らないが、うまいもんだ。ロイは納得すると同時に関心して、自分でも一つ作ってみることにする。手を軽く握って、押し付けて、ちょんちょんちょんちょんちょん。
「ちゅうさのおっきいねー」
「ボクもやるー!」
エドワードの賛辞とアルフォンスの主張を聞きながら、ロイは鏡を見つめた。なんだか自分の分の足跡だけ、でかくて可愛くない。
ぺたぺたしだしたアルフォンスの足跡も小さくて見た目がよろしい。
こんなに可愛い足跡を残せるんだから、やっぱり二人は小人さんなんだ、と今度は寝ぼけていない頭で強く思ったロイだった。
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