しにねたです。この漢字使うのいやだわー。

さよなら、犬


 同じ、だと思った。色は違えど、まあるくて大きくて、少しだけ不安そうな。そんな目が三対。案の定、上司はかたまっている。
 これは陥落だなと斜め後ろに立ってこどもたちのお願い攻撃から逃れているホークアイは苦笑した。が、その眉が訝しげにひそめられるまで、そう時間はかからなかった。
「駄目だ」
 上司はきっぱりと言った。
 この辺りではあまり見ないが、下町には野良犬が多い。首輪をしていないこの犬も毛並みからして、そちらから流れてきたのだろう。この近所は懐に多少余裕のある家庭が多いので、迷い込む野良犬に結構良い物を食べさせてくれる。元から住み着いているならばもう少しふっくらとしているはずだ。
 道でうずくまっていたのだといって幼いこどもたちが帰宅途中の大人二人を呼び止めたのはほんの数分前のことだった。
 うちでかいたい。かってもいいでしょ?けがもしてるんだ、ほら。
 後ろ足に血がにじんでいた。
 おいしゃさんにみてもらわなきゃ。
 小さな犬だった。白い毛はあちこちが泥にまみれ、抱えているエドワードも頬や服に泥がはねている。ぷるぷると震えているのは上司の威圧に中てられてか。
 養い親の思いもかけない返答にはホークアイだけでなくこどもたちも驚いていた。まるい目をますます丸くして見開いている。
「なんで!? かわいそうだよ!」
「オレたちちゃんとめんどうみるから!おさんぽもさせるから!」
 次々と言い募っても上司は首を縦にはふらなかった。ただ、一つだけ譲歩した。
「お医者さんには連れて行こう」
 上司はハンカチを取り出すと小犬の傷ついた足を縛って止血し、またエドワードに持たせた。ホークアイも慌てて自分のハンカチを差し出した。上司は小犬をエドワードに持たせたまま大判のハンカチで器用にくるむ。手つきが優しかった。犬が嫌いなわけでもないだろうに。
 動物を飼ったことがない二人には行き着けの獣医などいない。そもそも絶対数が少ない。たいていは、人間を診る医者がついでに動物も診ている、といったものだ。しかしそれもまた、多くはない。
 その足で一行は商店街へと向かい、上司はこどもとホークアイと犬を残して花屋に入った。医者を紹介してくれる可能性があるらしい。
 残されたホークアイは何度も、自分が飼うと言おうとした。けれど上司が何の理由もなく彼らの願いをはねつけるとは思えないし、その思惑を推し量ることも出来なかったので、その度に思いとどまった。代わりにアルフォンスの手を取ってしっかりとつなぎ、エドワードの頭をなでた。そうすることしか出来なかった。
 しばらくして戻ってきた上司は、ここから2ブロック先に腕のいい医者がいるそうだと告げ、歩き出した。こどもたちとホークアイもとことことついていく。皆無言だった。犬が一度だけワンと鳴いた。


 医者は小犬を見て、一瞬顔をしかめたようだった。と思ったのはホークアイの見間違いだったかもしれない。瞬きをした後に見たときはもう、ホークアイの記憶にある、患者を前にした普通の医者の顔つきだった。
 医者の手は小犬の患部の周りの毛を押さえ、傷の具合がこちらにも確認出来るようにした。想像していたよりもだいぶ酷かった。包んでいたハンカチも染みが出来ている。
「せんせい、この子たすかる?」
 背の高い診察台に一生懸命すがって見上げるアルフォンスに医者は「この子が頑張れるように励ましてやって」と言った。
 ホークアイの隣で上司は、がんばれ、だいじょうぶだよ、と小犬を応援する二人のこどもの頭を、ついさっきホークアイがやったのと同じようになでた。
 ひょっとして、これは――。
 ふいに、やるせない気持ちになった。何もしてやれないとき、何も言えないとき。ただ相手に触れることしか出来ないとき。小犬は震えている。医者は冷静なことこのうえない。時折、こどもたちを安心させるためか、微笑みすらする。
 何度も嗅いだことのあるにおいが、鼻先をかすめた。


 廊下に出て上司と話していた医者は、戻ってくると
 今晩は入院してもらったほうがいいでしょう。
と言った。医者の言葉にこどもたちは不安そうにしていたが、家に帰ろうという養い親の言葉に素直に従った。夕飯に誘われたが辞退をしたホークアイは、電球が切れていたのを思い出し、三人と別れて商店街へと入った。雑貨屋へ行く途中、先ほどの花屋の娘に声をかけられた。
「どうでした?」
 簡潔な問いに口をついて出たのは自分でも意外な一言だった。
「おそらく、手遅れかと」
 やっぱりそうなの、と娘は痛ましげに目を伏せた。
「あの子たちには辛いことね」
「お気づきだったんですか? あの、小犬が……」
「ロイさんがそう言っていたから。においがするって。彼の、嗅覚といえばいいのかな、すごく鋭いから。お医者様を紹介はしたけれど、多分だめかなって。悲しいことだけど」
 最初からわかっていたのだ、きっと。
 そのうえで、こどもたちを悲しませないように、冷たいと思われようとも小犬を引き取ることを拒んだ。
「あなたにはきっと言っていいのよね、えーと、ホークアイさん? 私の知り合いが迷子になった犬を探していて、その探していた犬じゃないかって連絡したら、直接お医者様に引き取りに行ったって、そうすることにしたの」
 医者から帰る前、少し話していたのはそのことだったのか。花屋に入って時間をくっていたのも口裏を合わせるためだった。
「あの子たちに嘘をつくのはいやなんだけど、悲しいことを隠すためならいいかなって、そう思う」


 翌日、示し合わせた通りの事実が、こどもたちには告げられた。
 上司の優しさが正しいか間違っているかはわからない。
 誰にも是非の判定なんて下せない。
 ホークアイ自身は、母親を失ってまだ一年も経っていないこどもたちにまた死に直面させるのは可哀想だと思っている。
 でもお別れすら言えないのもまた、可哀想だ。こどもたちにとっても。あの小犬にとっても。
 近くの丘の片隅に佇む小さな小さな盛り土の前で、ホークアイはこどもたちの代わりに囁いた。


 さようなら

 

花屋さんの娘さんの名前、ジェーンだと思っていたらジーンでした。