相容れないもの


 汽車を待っていた。
 イーストシティまで一本で行く汽車は、本来ならこの駅に停車する時間はほんの五分か十分程度。乗客の乗り降りにかかる時間だけだ。しかし怒鳴るようなアナウンスによれば、車両整備で三十分ほど止まることになったらしい。目的地まであと二時間もかからないのだから、終点に着いてからにすればいいのに、と思っても、エドワードたちにはどうすることも出来ない。出来ることはただ一つ、待っていることだけだ。
 汽車の中にいても退屈なだけなので、外で飲み物でも買おうとホームに降り立ったエドワードに続いて、アルフォンスもその大きな身体で昇降口をどうにか通ると外に出た。
 店で飲み物だけを買うつもりが「昼ごはん、食べなよ」とアルフォンスにサンドイッチを追加され、ついでに「兄さんてば、すぐに食事するの忘れるんだから」とお小言までいただいたエドワードは、すぐ側のベンチに座ろうとして、右の手袋を釘に引っ掛けてしまった。だいぶ酷使していたのか、いやにあっさりと破けたそれを、エドワードは舌打ちしてはずす。
 直すのは簡単だが、唐突に錬成陣の光が現れて人の注目をあびるのはためらわれて、しかたなく鋼の右手をさらすことにした。周りの人間は荷物を運んだり次の汽車の時間を調べたりで、ちいさなこどもの右手になど注意を払わなかった。
 ただ一人の男をのぞいては。
 男は、兄弟の座るベンチの、隣に置いてある木箱に座っていた。
 それほど年でもないようなのに、背中を丸め、肩を落とす様子が男を老けた雰囲気に見せている。兄弟が座ってから何度目かになるため息を着きながら、彼は行き交う人々を浮かない顔つきで眺めていた。それが、エドワードが右の手袋をはずした途端、目を丸くして急に現実に戻ってきたような面持ちになる。
「きみ、それはどうしたんだ?」
「東部の内乱で。おじさんは?」
 男には右腕がなかった。古びてはいるが清潔な上着の右袖が、風に吹かれてはらはらとゆらめく。
 黙りこむ男にエドワードは言う。
「自分のことを聞かれたくないなら最初から人に聞くな」
 即座にアルフォンスが「兄さん」と咎めたが、それ以上何も言わなかったのは弟も同じ気持ちだったからだろう。そんな兄弟の反応を見て、男は閉じていた口を開いた。
「確かに少年の言う通りだ。すまなかった。……数年前のことだ。何かに引っ掛けた切り傷から菌が入ってね。あっという間に腫れたので医者に見せた。そうしたら医者は言ったよ。このままじゃ腕が腐ると。それだけじゃ納まらず、全身に回ってこの体を蝕むと」
 男は淡々と続ける。
「だからもう、いまのうちに腕を切るしかないといわれた。 ついてきた妻は即座に答えたよ。医者に食って掛かるように言った。切ってくださいと。それから、私の腕にすがってきた。お願い、切って。命を失うよりずっとましよ。腕の一本くらいなくなったって、命を失うよりましだと」
「じゃあほんの少しの時間で……」
 腕を切るかどうか決めなきゃならなかったのか。エドワードは語尾を飲み込んだが、男は力なく頷いた。
「たった数時間の出来事だった。昨日まであった腕が、麻酔からさめたらもうないんだよ」
 男は、私は何歳に見えるかな、とエドワードに問う。エドワードは弟と顔を見合わせ、男に向き直った。
「40くらい」
「これでも28なんだよ」
 男の髪は白いものが大半を占めていた。とても28には見えない。若々しさが欠片も感じられない。
「話に聞くだけの頃は、ショックで髪の色が抜けるなんて信じていなかったんだけどね。実際に体験してみると、信じざるを得ない」
 苦笑いを浮かべたつもりなのだろう。わずかに口の端を上げた男は、エドワードの機械鎧を見つめた。
「東部の内乱、と言ったね。その右手は」
「いや、右手っつーか右腕。おにーさんと同じ。肩まで機械鎧だよ」
「俺は機械鎧には詳しくないが、随分と立派なものに見えるな」
「幼馴染が機械鎧の技師でさ。おにーさんはずっとそのまま?」
 中身のない右袖へ向けられたエドワードの視線を咎めるでもなく、男はゆっくりと頷く。
「仕事もやめなければならなかったから、機械鎧を買っても払う金がない。義手は役に立たないし、重いからつけているだけ邪魔だ」
 言葉の中身はエドワードの機械鎧をうらやましがっているようだったが、男の目にその感情は見てとれない。
「右腕を失ったときはどう思った?機械鎧に慣れているみたいだから、右腕がなくなったのは二、三年は前なんだろう?」
 機械鎧の手術後のリハビリには大人でも二年以上はかかると聞いている、と男は言ったが、実際エドワードがリハビリに要した時間は一年だ。
「……仕方がないって思ったよ。失ったのは誰のせいでもない、俺のせいだったから」
 内乱で失ったことにしたのに自分のせいというのはおかしい気もしたが、男は気に留めていないようだった。
「仕方がない、か。俺はそんなふうには思えないよ。たったあれだけの傷が原因で、どうして右腕を失わなきゃならない。……それに、右手を失ったのもショックだったが、それと同じくらい、妻の言葉にもうちのめされたよ」
 エドワードはついさっき、男が語ったばかりのことを反芻する。男の妻の言葉。すぐに「切ってください」と医者に頼んだ彼女。命を失うより右腕を失ったほうがましだと言った彼女。
 男の答えはこうだった。
「ケガをする数日前までは建築の仕事をしていたんだ。自分で言うのもなんだが、腕はよかった。自信があった。親方にも、これならすぐにあとをゆずれると言われた。この両腕は俺の誇りだった」
 それを妻は、右腕なんか、と言った。男の声は、暗くて低かった。
「奥さんはあんたの命の心配をしたんだろ」
 あのとき、自分の命と引き換えにしてもいいから弟を奪わないでくれ、と願った。今、エドワードの右腕と引き換えに鎧の姿で弟は隣にいる。共にある。
 真理に右腕を差し出したことに何の後悔もない。
 しかし、この男は違う。
 男の、妻を恨んでいるかのような口ぶりに、無意識にエドワードは自分の右手をさすった。背筋を嫌なものが這い上がる。
 顔を上げた男の暗い目を見て、この男は妻を恨んでいると確信した。息を呑んだエドワードに男は笑った。
「命がなくなっては元も子もない。それはわかっているよ。だが、この右腕を無くてもいいと妻は言ったんだ」
 こんなにも大切にしている、誇りに思っている俺の腕を。
 男の笑い声に耳をふさぎたくなった。兄さん、汽車が発車するみたいだ。アルフォンスの言葉に救われるように、エドワードは立ち上がった。一刻も早くこの場を離れたい。怖いというよりも気持ちが悪かった。どう理解しようとつとめても、自分にはきっと理解することが出来ない。お大事に、とおざなりに呟いて歩き出そうとしたエドワードの身体は、しかしその場に引き止められた。男の左手に捕まえられている。
「乗り遅れるから離してくれ」
 振り払おうとしたエドワードの右手の小指の脇を、男は手首をつかんだまま器用になぞった。
「ここだ。ここだよ、あの傷は……」
 男は微笑んですらいた。エドワードは今度こそ男の左手を振り払うと、荷物を持ったまま心配そうにこちらをうかがっていたアルフォンスを促して汽車に乗った。木箱に腰を下ろしたままの男は、まだ笑っていた。


 重苦しい空気をどうにかしようと、やけに明るく振舞っても、逆に弟を心配させるだけだとわかっているエドワードは、イーストシティに着くと早々に弟と別行動をとることにした。宿を手早く決めて荷物を置くと、嵐があってこのざまだ、と嘆く宿屋の主人を手伝うというアルフォンスに、暇になったら頼む、といくつか題名と著者名を記した紙を渡した。いずれも、ここに来る前の街で仕入れた情報の中にあった本だ。軍部の図書館は膨大な蔵書量を誇るが、民間の俗な伝承の類は、民間の施設や本屋を回った方が手に入れやすい。
 そうしておいて、エドワードは一人、東方司令部へと向かった。自分が気落ちしているのがわかったのか、それともこちらのあずかり知らぬ事情でか、大佐からの嫌味はほとんどなかった。不機嫌だったようにも見える。どちらにしろ報告は短時間で済み、ついでだからと大佐の部下がいる部屋へと顔を出した。宿に行くまでにいつもどおりの自分に戻るための時間稼ぎだ。東方司令部の面々とはある程度気安い仲といっても、つきあいの長い弟とは違って、そうそうこの状態を気取られることはないはずだ。
 戸口から中をのぞくと、一人ソファーに陣取ってタバコを咥えていたハボックにちょいちょいと手招かれた。ハボックが隣の空いたスペースをたたくので、その仕草につられてなんとなくそこに腰を下ろす。
「大将、お疲れさん。今日はアルは?」
「宿で壁修理の手伝いやってる」
 いつも賑やかな司令部が、今日は随分とおとなしい。ハボックの言によれば、嵐が訪れたあとのさまざまな処理に追われて、さすがの司令部の面々もぐったり、というところだった。
 その中で一人、あまり疲労の見えないハボックが、水玉の下着だのなんだのというので、幾分気持ちが軽くなる。エドワードには、ハボックの、人を構えさせない性格が好ましい。人によっては、ふざけているとか、適当にあしらわれたとか、そういう受け取り方をするのかもしれないが。少なくとも、気落ちしている今のエドワードにとって、ハボックはとてもつきあいやすい相手だった。
 そう思って、時折笑みも交えながらハボックの話に相槌を打っているさなか、ハボックの右手の脇に視線を奪われた。小指の脇を一本の赤い線が通っている。
『ここだ。ここだよ、あの傷は……』
 笑う男の顔が脳裏に浮かんだ。二年経ってもなお消化しきれない男の妻への恨み。
 男の気味の悪い笑顔とは全く違うハボックの苦笑顔に、エドワードはいたたまれなくなった。別にどうってことない、と言うハボックの手を、強引につかんで消毒をし、テープを巻いた。その間、ぼそぼそと駅での出来事を部分的に話したが、ハボックは余計なことは言わず、おとなしくエドワードのされるがままになっていた。
 終わって、「気にすんなよ、大将。ありがとう」と大きな手で頭をたたかれた。ハボックの手は大きい。小さな切り傷や擦り傷にまみれたその手は、何もかもをつかめそうな強さもある。何もかもをつかめる手なんてこの世にはないとわかっていても。
「大将、手みせてくれよ」
 じっと見ていた手の主に言われ、一瞬驚いたがエドワードはすぐに「いいよ」と頷いた。街中と違って、鋼の錬金術師だと知られている司令部内ではおおっぴらに右腕をさらして歩くことも多々あるが、間近でまじまじと見つめられることはそうない。変な緊張感に包まれながらエドワードが右手を差し出すと、直すのを忘れていて一部が破けたままの白い手袋ごと、ハボックの手に捕えられた。いやに真剣な表情をハボックは浮かべている。手袋をはずして直接機械鎧の右手に触れたハボックが呟いた。
「……冷たいな」
 それ自体は、痛みも温度も感じない機械鎧を、ハボックは丹念に観察している。手のひらを開いてみたり、裏返してみたり。少しずつ、ハボックの体温が移って、エドワードの冷たい右手が熱を持っていく。
 右腕を失った男に捕まえられたあの箇所も、ハボックの手が触れていった。男の笑い声が遠のいていく。妻への恨み言も、だんだん薄いものへと姿をかえていく。今ならあの男に言えそうな気がした。あんたは腕を失ったのを人のせいにしている。あんたが守りたかったのは仕事に対する誇りなんかじゃない。己の卑小なプライドだ。片手でもなお、名工と言われる人間たちがいることに目をつぶって、片腕しかなくなってしまったからと逃げている己を守るために。
 男の笑い声を聞きながら、多分自分自身に重ねていた。あれだけ固く決意したはずなのに、本当は己を恨んでいるかもしれない弟に、本心をきけないでいるこのふがいなさを。
 己の犯した取り返しのつかない罪を償うために。弟の身体を取り戻すために。
 そんなふがいなさなど、切り捨ててしまわなければならない。
「大将」
 ハボックの、温かみのある声がエドワードの耳を優しく打つ。
「昼飯食ったか?」
「食べ損ねた」
「じゃあ、食いに行くか」
 だから今だけ。少しの温かさをこの冷たい右手に与えてくれた人と、短い時間を過ごしてもいいだろうか。

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