ロック ワンズ フィンガーズ


 久しぶりに司令部にやってきて嫌々ながら大佐に報告をしに行き、なんだか腑に落ちない表情を浮かべて部屋に戻ってきたこどもを、ハボックはちょいちょいと手招いて横に座らせた。
 こどもとの距離はほんの数センチ。
「大将、お疲れさん。今日はアルは?」
「宿で壁修理の手伝いやってる」
 ここへ来る前にすでに宿を決めてきたエドワードは、苦笑混じりに言った。
「俺らは今日ここに着いたからよくは知らねえけど、昨日は嵐だったんだって?」
「雨は降らなかったんだけど風が強くて、看板が壊れたとか窓ガラスが割れたとか屋根が剥がれたとかで街は騒がしいし、こっちにも『とっとと修理要員を出しやがれ!』ってクレームが来てて大変だったな。その影響がそこらに転がってる屍」
 エドワードは、そういえば、と呟いて辺りをぐるりと見回した。ぐったりと椅子に寄りかかっているファルマンとフュリー。机の間から聞こえてくるいびきは、多分ブレダなのだろう。この場に姿が確認出来ないのは彼だけだ。その中で一人、背筋をぴんと伸ばしているのはホークアイだけだが、それでもずいぶんと顔に疲労を滲ませている。
「ああ、そっか。それで大佐のやつ、機嫌悪かったんだ」
 やっと得心がいったとばかりに、エドワードは少々満足げに頷いた。
「いつもより嫌味が多かったのか?」
「いや。少なかったんだ。それで驚いてさ」
 苦情処理の、直接の応対は部下がやるが、修理に充てる要員の数、予算、その他もろもろの事務処理は、最終的にはすべてが大佐へと行く。必然的に、最後まで仕事をしなければいけないのは彼である。それと、今ちょうど書類をそろえてため息を吐いたホークアイ。
 彼女にしては珍しくガタンと音を立てて椅子から腰を上げ、執務室に向かうホークアイの後姿を眺めたエドワードは、隣を呆れ顔で見やる。
「あんた、あんまり疲れてねえのな」
「言い訳させてもらうと、屍になってる三人は力仕事に借り出されて、俺は探し物班に入れられたんだよ」
「探し物班?」
「そ。風でいろんなところに飛んだ物を探すのが役割。多かったのは店の看板だけどな。中には洗濯物なんてのもあった」
 よその旦那の下着とか探させられたんだぜ、まったく勘弁してくれよ……。
 肩をすくめるハボックに、「そりゃ下着はちょっと辛いよなー」とエドワードは慰めつつも笑い声をあげた。
「探すあんたたちも大変だけど、探してもらうほうもなんか恥ずかしくねえのかな」
「どっかの旦那の水玉パンツ見つけたときはさすがに俺もそう思った」
 ハボックは自分より頭一つ半は優に小さいエドワードに向けて肩を竦めたが、エドワードは何かに目を奪われたように動きを止めた。
「少尉、それ……」
 ハボックがエドワードの視線の先をたどると、それは自分の手だった。手がどうしたというのだろう。
「長い切り傷が出来てる」
「ああ、これか」
 小指の脇を、手首の方まで赤い線が走っている。長いとはいっても、ちょっと痒みが出る程度の浅い傷だ。痛みはほとんどないからすっかり忘れていた。
「看板かなんかの板切れで切ったんだろうな」
「痛くないのか?」
「全く。見た目ほど酷くはねえし痛みもほとんどないから――」
「消毒しとけ!」
 忘れていたくらいだよ、と続けようとしたハボックの言葉は、エドワードの強い語調にさえぎられた。
「大将、んな大げさな」
「いいから!」
 色々な事件に巻き込まれ、首をつっこんでは大小さまざまな傷を負うこどもが何を言うかと思ったが、エドワードの強硬な態度に押し切られる形でハボックは消毒薬のある場所を白状した。
 

 小さな生身の手と鋼の手が、消毒薬をコットンにとって丁寧に傷口に染み込ませた。独特の痛みにハボックが顔をしかめると、エドワードが低い声で話し出した。あまりに低すぎて少々聞き取りにくいほどだった。
「ここに来る途中に寄った街の駅で、ある男に会ったんだ。その人は俺と同じで右腕がなかった。義手も機械鎧もつけてなくて、服の右袖がぶらぶらしてた。汽車を待つ時間、なんとなく話したんだけど、その人、つい二、三年前に腕を失くしたんだって。小さな切り傷からなんかのウイルスが入って、全身に回る前に腕を切らなければ命を落とすぞって医者に言われて、悩む暇もなく奥さんに命を失うよりましだって懇願されて切ったんだ」
 話の筋がなんとなくわかってきた。
「その人は左手で俺の右手をつかんで、『この辺だ。この辺に出来た小さな傷が原因だ』って言った。この辺……」
 エドワードはハボックの右手の、小指の脇をコットンの上から押さえた。
「……悪ぃ。俺ちょっとどうかしてる」
 苦笑いを浮かべたエドワードは、それでも手当てを途中で放り出すことはせず、傷止めのテープを適当な長さに切るとぺたりと貼り付けた。
「気にすんなよ、大将。ありがとう」
 ぽんぽんと頭をたたくと、いつもなら「ガキ扱いすんな!」と怒り狂うはずのエドワードが、じっとされるがままになっている。どうかしてる、と自己申告の通り、今日のエドワードは少しいつもと違う。
 頭から離れたハボックの手を、じーっと見ている。
「少尉の手ってでかいよな。背が高いとやっぱ手も大きくなるのかな。それとも手が大きいと背がでかくなる――」
「手は関係ないんじゃないか?足がでかいやつは背も伸びるって言うけど」
 エドワードは何を思ったか、ハボックの右手をつかんで、まじまじと見始めた。
「さっきの傷以外にも小さな切り傷とか擦り傷がいっぱいだ。……いや、もういいよ。消毒するとか言わねえから」
 救急箱の中にある消毒薬を見やったハボックに気づき、エドワードは首を振る。少しずつ、いつもの自分に戻ろうとしているのがハボックにもわかった。
「大将、手みせてくれよ」
 一瞬きょとんとしたエドワードは、なんでそんなことを言うのだ?と首を傾げてみせたが、すぐに「いいよ」と頷いた。同意を得てハボックは、差し出された右手を白い手袋ごと捕まえた。
 慎重に手袋をはずすと、中から鋼の機械鎧があらわれる。触るとひんやりとした。
「神経は通ってるって言ってたけど、温度は感じないのか?」
 聞きながら自分でも愚問だと思った。いちいち温度を感じていては、機械鎧自体の冷たさや、酷使したあとに持つ熱に耐えられないだろう。
 けれどエドワードは、そんなハボックの質問に笑うことはなかった。
「感じない。つないであるのは運動神経だけだから。ああでも、厳密にはそれだけじゃないのかもな。何かを持ったり押したりしたときの手ごたえは感じるから。……機械鎧については専門じゃないから、詳しくは知らない」
 全部、ウィンリィに任せてるから。
 さらりと言ったエドワードの目が、少女を思い出して幾分優しいものになる。本当に信頼して、任せているのだろう。
 鋼の右手をつかんだ手に、思わず力がこもった。「少尉……?」いぶかしげに聞くエドワードの声が、左から右へと素通りする。
 うらやましい、と思った。機械鎧技師であり、少年の幼馴染である少女を。
 彼女は、この冷たくて重い右手と、そして左足を一緒に支えることが出来るのだ。
 軍部の人間として、一人にだけ時間を割くことはハボックには出来ない。もう少し階級が上なら、大佐みたいに色々と便宜を図ってやることも出来ただろうに。かといって、そのために昇進を目指すつもりもない。
 エドワードの力になりたい、と思う気持ちと、どこかでそんな自分を冷めた目で見ているもう一人の自分がいる。
 だってこの少年が背負っているのは、彼自身の罪だ。いくら幼い頃に犯したこととはいえ、弟の身体を元に戻し、彼自身の生身の手足も取り返すまではずっと背負い続けなければならない罪。
 償う彼のために軽々しく手を貸すほど、自分にとって彼の存在は重くはない。
 それなのに。
 少女を羨んでいる。
「……冷たいな」
 鋼の右手は冷たい。手のひらに触れ、手首をなぞる。赤いコートの袖口に指先を忍ばせ、見えない部分にも触れた。
「この中に、神経が通ってるのか」
「神経っていうか、単なる配線みたいだけどな。電気とおんなじ」
 その線に直接触れたら、感電でもするんだろうか。
 そして、幾人もの、身体の一部を失った人を見てきたエドワードがどうして今になって己の感傷にとらわれているのか、そのわけがわかるだろうか。
 自分の生身の左手指を、エドワードの鋼の右手指に絡めた。しっかりと握る。
「少尉?」
 戸惑ったようなエドワードの声は頭の中を素通りしていく。
 いまだけは、その冷たい右手を暖めてやりたいと、そう思った。

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