零れた


 いつもなら嵐のようにやってきて、また嵐のように去って行くエルリック兄弟が、今回に限っては比較的まとまった日数、イーストシティにとどまっている。
 思えば今回は、来たときから少し様子が違っていた。兄弟の、というよりはエドワードの。彼らが到着してから、アルフォンスとは一回しか会っていない。普段からアルフォンスは兄を気遣う優しい弟だったが、ハボックの目から見た今回の彼は、幾分兄に対する心配の度合いが強い。
 エドワードが来るときに静かで気落ちしているようだった原因はわかっているが、なぜイーストシティにとどまっているかはわからない。毎日司令部に顔を出すエドワードに聞いても「資料室に用があるから」と答えるばかりで、ハボックにそれ以上立ち入ったことが聞けるわけがない。
 こんなに気になっているのは、エドワードが来たときに様子がおかしかったのと、あとは資料室を管理する者の言葉のせいだった。
「いつもなら一心不乱に読んでるんですけどね、なんでだか本も読まないでぼーっとしてるんですよ」
 一旦本を読み始めると、ちょっとやそっとのことでは動かないエドワードが、だ。寝食も忘れてというならともかく、本棚に背をつけてため息ばかりついているとは。


「ハボック少尉。ちょっと資料室まで行って来てくれ」
 ついさっきまでサボっていたはずの上官に呼び出され、机の前に立って用件を聞くと、彼の上官はそんなことを言った。
「大佐ー、あんたさっきまでサボってたでしょーが。ついでに行ってくればよかったじゃないすか」
「君が暇そうにしてるから暇つぶしをさせてあげるんじゃないか」
 資料室でぼーっとしているというエドワードの様子が伝染しているのか、東方司令部全体もなんとなく気が抜けたようになっている。それは平和平穏の証であって忌むべきものではないし、一旦事が起こったらすぐに緊張感に包まれるのだから別にハボックの構うことではない。ただ、この隙にいつも後回しにしていた事後報告の書類を大佐に消化させようとするホークアイ中尉と、この隙に思いっきりサボろうとして逃亡する大佐の、おいかけっこの余波がかぶさってくるのだけは遠慮したい。
 いまも大佐は、ホークアイ中尉に首根っこをつかまれて益体もない書類を前につっぷしている。
 あんた、仕事しろよ。
 心中で呟いたが、形ばかりの敬礼をしてハボックは資料室へと向かった。
 大佐の話では、目的はエドワードだと言う。曰く、エドワードが旅先で得た本の数々を勝手に資料室の一部に自分のスペースを作って収めているのだそうだ。勝手、といっても元々は管理する者にちゃんと話を通して、少しくらいなら置いてもいいよ、とその者は了承したのだが、あまりに量が増えてしまって、そうなってはさすがにほいほいと承諾し続けるわけにも行かず、眉間に皺を寄せてエドワードに苦言を呈せざるを得なかった。
 けれどエドワードは『他に置けるとこ探してるから、もう少しだけ待って』と言うばかりで一向に移す様子がない。
 それで困った管理者が大佐に進言したのがハボックに回ってきた、というわけだった。ハボックの見るところでは、大佐はエドワードに本を引き上げさせるつもりはこれっぽっちもない。その辺、結局大佐もエドワードにはそれなりに気を配っているのだ。放って置くと、旅先で電話連絡すら怠る彼が、短い期間で必ずここに戻ってくるために。戻って来ざるを得ないために。決してエドワードの動向を監視するためだけではない。
 多分、大佐がハボックに無言で願っているのは、一応エドワードにはハボックから話をして、エドワードがそれに生返事をして、元のままなあなあで済ませてしまう、ということだ。大佐が直接話をすれば、まんま上官命令だ。それでエドワードが「じゃあウィンリィんちに置くよ」などと言ったら、もう任務が回ってこない限り、司令部には訪れないだろう。全部、電話で済ませてしまうに違いない。エドワードがなじみのある自分たちを嫌っているとは考えたこともないが、進んで会いに来るほど親しみを感じているわけでもない。
 長い廊下を歩いて、広い図書館の奥にある資料室の開いたままのドアをノックしながら覗き込むと、窓際に寄りかかって外を眺めていたエドワードが振り返った。ぼーっとしていたかと思いきや、顔つきは意外にも険しい。
「何?なんか用?」
 不機嫌に聞こえる口調で返事をされ、ハボックは肩をすくめた。
「大佐からのことづけ。そろそろ管理の者が音を上げるよ、だとさ」
 出来るだけ上官の真似をして言ってみると、エドワードの表情が少し緩んだ。
「似てるな。うまいじゃん、大佐のえっらそーないやみーな口調」
「誉められても嬉しくねえんだけど」
 入り口に立ったままだったので中へ入ってエドワードの側に立つと、彼はハボックを見上げて苦笑した。
「もうそろそろ言われるかとは思ってたんだ。だってそことそこと、その隣の本棚全部占有しちまってるから」
 エドワードの人差し指が示す本棚を順に見ていくと、どれもさまざまな背表紙の書物でぎっしりと埋まっていた。普通に収めた本と横板の隙間にも平積みして押し込まれている。文字通り、ぎっしりだ。しかも、「あ、それもだ」などと言って、そのまた隣にある本棚を彼は指さした。
「ピナコばっちゃんとこに置いてもらうのも考えたんだけどさ、リゼンブールだと行き来するのに時間がかかるんだよな。その点ここだと、あそこよりはどこ行くにもましだし、管理もきっちりしてもらえるし楽なんだ。俺が絶対いじらないでくれって言ってる本以外は時々虫干しもしてくれるし、しょっちゅう埃を払ってくれてる」
 でも、ちょっと甘えすぎてたな。そう言ってエドワードは照れたように頬をかく。
 ピナコ・ロックベルの家に置いてもらうかどうかを考えているのか。それとももう、どうやって運ぶかを考えているのだろうか。
 そんなことを思った途端、ハボックは口を開いていた。
「俺んちに置いてやろうか?」
「へ?少尉のとこ?」
 思ってもみなかったというように目を見開くエドワードに「俺んち、官舎じゃないから少しはスペースあるぞ」と答えてさらに続ける。
「といっても全部は無理。そこにある半分くらいなら引き取るよ。こっからそんな遠くもないし、行き来するにもリゼンブールよりは便利だろ」
 ま、虫干しはしてやらないけどな、と笑いながら言うと、エドワードは探るように質問を投げかけてくる。
「迷惑じゃないの?」
「迷惑だったらこんなこと言わねえよ」
 それからもしばらくエドワードは疑い深げにハボックを見つめていたが、ハボックが焦れずに待っているとようやく納得したようだった。
「すみません、じゃあお言葉に甘えてお願いします」
 鋼の錬金術師が礼儀正しくお辞儀をしている。ハボックは、滅多にみないその姿に少し感動を覚えつつ、たったこれだけのことにはきちんと礼を言うのになぜ大佐に対してはいつもぞんざいな態度なんだと不思議に思った。ひょっとしたら二人は、わりと似たもの同士だからなのかもしれない。
「じゃあ、あとで大佐んとこに顔出せよ。そのあと、俺んちに案内するから」
 そう言って、資料室のドアに向かいかけると、エドワードに呼び止められた。
「ハボック少尉」
 ポケットに手をつっこんで煙草を取り出しながらハボックが振り向くと、エドワードは真っ直ぐにハボックを見ていた。
「少尉。俺、あんたのこと好きかもしれない」
 瞬間、ハボックの動作の全てがとまった。
 好き?好きって何?
 自分より一回り近く年下の少年の口から飛び出した言葉が、耳から入って頭をめぐりめぐって理解するまでに数分くらいかかったような気がした。
 好き。ああ、「好き」ね。人間が他の人間に心が引き付けられる感情だ。
 でも「好き」の種類にはいっぱいあって、親が好きだとか友達が好きだとか恋人が好きだとか、方向性がみんな違う。だからエドワードが言った「好き」も友達に対するもので、決して恋人に対するもののわけがない。
 それなのに身体が動かなくて、頭の中だけが怒涛のように回り出した。
 ちょっと待ってほしい。なんでこんな状態になっているんだ?
 ハボックのそんな様子に気づかず、エドワードは続けて爆弾を落とす。
「あんたが俺のこと考えてくれて、嬉しいって思ったんだ」
 ってことはそういう意味なのか?
 「好き」の種類がなんだか限定されたような気がして、すごい勢いで空回りをしていた思考がぴたりととまる。
 そんな、全く顔色を変えずに好きとか言われても。
 しかも言ったあとで「かもしれない」なんてつけくわえられた。
 結局好きなのかどうかもわからず、そんな告白ともとれない告白をされて、ハボックは「はあ……」と呆けたように答えるしかなかった。こんなときは「ありがとう」と言うのも間抜けに思える。
 一方エドワードはといえば、納得したように一つ大きく頷いて、「じゃあな」などといってその場に座り込んだ。
 積んである本の山の頂上にある本をとると、ページを開いて目を落とす。
「大将?」
 呼んでみても返事はない。
「エドワード」
 名前を呼んでもやっぱり応えはない。
 こうなってしまっては、誰が何を言っても返事をすることはなく、何かの危険が迫っているとでもいうのでなければ、多分耳に届くのは彼の弟の声だけだろう。肩をゆすれば気づくかもしれないが、今エドワードに触れる気にはなれなかった。ぽんぽんと、手のひらで頭をたたくくらい、気軽に出来ていたのに。つい、さっきまで。
 気がついたら資料室を後にして廊下を歩いていたが、頭の中はついさっきのエドワードの言葉でいっぱいだった。険しい顔つきが解かれて、笑みに変わっていったその様が思い出される。
 一人暮らしには広くても、絶対的に広いわけではない自分の部屋に本を置いてやろうと思ったのはなぜだったのだろう。エドワードのもっと笑った顔が見たかったからじゃないのか。それとも、エドワードが滅多にここに寄らなくなるのが嫌だと思ったからじゃないのか。
 考えれば考えるだけ、ますます深みにはまりそうだった。

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