※東方司令部内に勝手に図書館を作っています。

零された


 セントラルの図書館は軍本部から少し離れたところに本館と分館を構えているが、イーストシティでは東方司令部からほど近いところに建っている。そしてその規模はといえば、セントラルとは比べ物にならないほど小さい。一方司令部内にある図書室はそれなりの広さを誇っており、学術書や歴史書、論文といった類の蔵書は豊富だ。
 図書室を奥へと進むと、入るのに上官の許可を必要とする、こじんまりとした資料室がある。許可が必要、といってもそれほど厳しいものではなく、厳しいのはそことは別の部屋になっている軍事に関する資料室への出入りだ。
 エドワードが用があるのは前者の資料室で、東方司令部に顔を出すたびにそこへいりびたって数日を過ごす。
 現在、根無し草であるエドワードとアルフォンスは旅先で得た資料を置く場所に困ったこともあって、資料室を管理する司書に頼んで専用の本棚を空けてもらっている。棚の一段だけ、というならともかくまるまる一つ全てを使わせてくれているのはおそらく大佐からの通達があったからだろう。となれば、一つが二つ、二つが三つになるのにさほど時間はかからず、先日四つ目の棚を空けて使わせてもらうにいたって、管理をしている司書から苦い顔で注意を受けた。
「この調子でどんどん増えていくと困るのよ。いつかこの資料室全部がエドワードくんの本で埋まっちゃうわ」
 エドワードがそれに「ごめん、そろそろ他のとこに持っていくから」と言ってからもう数ヶ月が経っている。もともと東方司令部を訪れるのは最低でも一ヶ月以上のスパンで、滞在期間は三日間にも満たないものだから、本を置く場所を探す時間もなければ運ぶ時間もない。お小言を数回やり過ごせば済むだけなので、必然的に本は移動されることなくたまる一方だ。
 そして久々に東方司令部を訪れた今回、エドワードはいつものように資料室にこもりきりで時間を過ごしている。読書量は多いが、読書自体はさほど好きなわけではない。必要とする以外の知識を得るのも楽しいが、それよりも好きなのは本の匂いだ。資料室内に申し訳程度に置かれている机も椅子も使わず、エドワードは本棚に納まりきらなくて床に直接積まれた本の山の間にうずもれて座り込んでいた。
 時々アルフォンスやフュリー曹長が昼ご飯やらおやつやらを差し入れてくれるのだが、彼らが本の陰に隠れているエドワードを見つけたときの反応がとてもよく似ていて面白い。本の山からのぞきこんで、軽く目を見開いて「あ、見つけた」と嬉しそうな顔をして微笑むのだ。といってもアルフォンスの鎧には表情がないから、そう連想させる肩や頭部の揺れからエドワードが思ったことだ。いままでも何度となく差し入れをしてもらったことはあるのだが、二人が似ていると思ったのは今回が初めてだった。それも、日中ここにこもって三日目あたりからだ。いつも本に集中していて他に意識が向かなかったから、そんなことに気づく暇もなかった。
「いつまでこんなことしてんだろ」
 学術書を開くでもなく、理論を組み立てるでもなく、壁に背を預けて横にある本の背表紙を指でたどっていたエドワードは、天井を仰ぎ見てため息をついた。おとといも昨日も、こうやって座っていたり、窓枠に腰を下ろしてぼーっと外を見ているだけだった。いったいなにをやっているんだか。
 アルフォンスは何を言うでもなく、エドワードの好きにさせてくれている。もともと、先へ先へと進むことしか考えず、立ち止まることをしない兄の身を案じているアルフォンスだから、たまにはひとところに留まるのもいいと思っているのかもしれない。エドワードの様子がおかしいことには気づいているだろうが、問いただすようなことはなかった。
『ちょっと休んでみるのもいいよね』
 ちょこんと首を傾けたアルフォンスはそう言いながら、軍部の雑用を手伝っている。事務手続きに必要な書類を届けたり、たまった資料を別の部屋に運んだり。結局、休んでいるのはエドワードだけである。
 エドワードはもう一度大きくため息をついて、自分の右手を眺めた。右の白い手袋をはずすと、中から鋼の手が現れる。左の方もはずして生身の指先で機械鎧に触れた。冷たさは変わらない。
 ウィンリィの話によれば、駆動時に熱を持つように設計するのは簡単だそうだが(むしろその逆が難しい、と誇らしげに彼女は言った)、彼女は「そんなことしても嬉しくないでしょ」と清々しく断言した。機械による熱で身体は暖まっても、心までは温まらない。
 少しでも温かいほうがいいじゃない、などと言わないのがウィンリィのいいところだし、エドワードは彼女のそういうところが好きだった。
 でも、温かかった。少尉の手は。
 自分の左手で触れても、鋼の右手は熱を感じることはない。あのときは、ハボックが触れたのを目で見て、視覚を通して認識した事実が頭の中をめぐって、感じるはずのない熱を右手にもたらした。今、冷静になって考えてみてもそれしか思いつかない。機械鎧には痛みや温度を感知する神経なんてつながれていないのだから。
 もう一度触れてほしい。熱をわけてほしい。
 ふと、そんな願望が浮かんで、エドワードは首を振ってそれを忘れようとした。
 ようやく自分が何を考えたかったのかに気づいたのは、今朝のことだった。今日まで自分が何を考えたかったのかを考えていた、という随分と回りくどいことをしていた。
 ベッドの中で目を覚まして起き上がると、心の中で霧のように漂うだけだった気持ちが、だんだんとまとまって形になっていくのを感じた。今朝、図書館の司書を勤める女性に挨拶をすると、「あら、ぼーっとしてるのは治ったのね。目がちゃんと焦点結んでるわ」なんて言われた。ここ数日の自分は、よっぽど気が抜けた風船みたいになっていたのだろうか。そういえば、本のあいだにうずくまるか、窓の外を眺めてばかりいた。
 しかし、考えたいことがわかったからといって、エドワードにはどうすることも出来ない。
 触れてほしいだなんて。


「大将」
 頭の中でずっと考えていた相手の声がいきなり耳に入って、身体が緊張した。唐突すぎて顔がこわばる。
 ここを訪れるのはアルフォンスか司書かフュリーか、そうでなければ大佐、たまにイーストシティにやってくるヒューズ中佐くらいのものだった。大佐からの伝言を届けに来るのはフュリー曹長で、エドワードはハボックがここに来るのを見たことがない。なんで、今日に限って。
「何?なんか用?」
 硬い声で返事をすると、ハボックは肩をすくめて言った。
「大佐からのことづけ。そろそろ管理の者が音を上げるよ、だとさ」
 大佐の口調があまりに似ているのでおかしくて、自分でもびっくりするほどに緊張の糸がほぐれた。
「似てるな。うまいじゃん、大佐のえっらそーないやみーな口調」
「誉められても嬉しくねえんだけど」
 戸口に立ったままだったハボックが一歩ずつ近づいてくる。緊張が一旦解ければ、エドワードにとってハボックは冬場の暖房のようなものだ。間近に立ったハボックを見上げて苦笑いを浮かべる。
「もうそろそろ言われるかとは思ってたんだ。だってそことそこと、その隣の本棚全部占有しちまってるから」
 全部で四つ。他の本棚は本が縦向きに一段で収められているのに、エドワードが使っている本棚は上から下までぎっしりとつまっている。誰が見てもすぐわかるだろう。
 ハボックは見るのが初めてだったのか、軽く目を見開いて口笛を吹いている。その口元には、あるはずのものがない。今日の彼は煙草を咥えていなかった。
「ピナコばっちゃんとこに置いてもらうのも考えたんだけどさ、リゼンブールだと行き来するのに時間がかかるんだよな。その点ここだと、あそこよりはどこ行くにもましだし、管理もきっちりしてもらえるし楽なんだ。俺が絶対いじらないでくれって言ってる本以外は時々虫干しもしてくれるし、しょっちゅう埃を払ってくれてる」
 でも、ちょっと甘えすぎてたな。そう言ってエドワードは俯いて頬をかいた。
 司書の女性に感謝はしているのだ、ものすごく。ばらばらに収納したものが気づけば著者順に並んでいたり、エドワードが触れるのを遠慮してくれと伝えた本以外については時折リストも出来ていたりする。司書という仕事に対する誇りがそうさせるのか。それともあまりに散らかしているので我慢がならなくなったのか。どちらにしろ、エドワードとしては助かっている。その厚意に甘え続けて今日に至る。
 しかし、そろそろこの蔵書のいくらかは他へ移さなければならない。行き先の候補として挙がっているのはリゼンブールだ。次点で大佐の官舎。無駄に広くてかなわん、などと言っていたから今更大量の本が襲ったところで構いやしないだろう。
 やっぱり大佐の官舎が便利か。
 尉官はともかく左官ともなればその官舎は一戸建てが与えられる。
 エドワードはロイ本人の許可も得ていないのに勝手に決めると、移動手段について算段しはじめた。
 運ぶとなると人手がいる。力持ちの弟がいるからそれほど困らないはずだが、手が足りないとなれば大佐に手伝ってもらうことにしよう。なにせ、家主である。家に帰るついでに運んでもらえば一石二鳥だ。大佐にとって、何が二鳥になるのかわからないが。
 頼めば少尉も手伝ってくれるだろうか。
 少しの間逡巡して、エドワードが思い切って口を開いた途端、ハボックが言った。
「俺んちに置いてやろうか?」
「へ?少尉のとこ?」
 思ってもみないことだった。一旦忘れ去ったはずの緊張が襲ってくる。
 どうして。どうしてそんなことを言うの。
 迷惑でしかないだろうに。いくらなんでも人が良すぎる。
「俺んち、官舎じゃないから少しはスペースあるぞ。といっても全部は無理。そこにある半分くらいなら引き取るよ。こっからそんな遠くもないし、行き来するにもリゼンブールよりは便利だろ。ま、虫干しはしてやらないけどな」
 ハボックはそう言って、なんでもないことのように笑う。
「迷惑じゃないの?」
「迷惑だったらこんなこと言わねえよ」
 困っているこどもを見捨てられないだけだ。きっと。そうに違いない。
 自分自身に言い聞かせる一方で、単純に嬉しさに心が跳ねている自分がいる。
 だって、今ハボックは自分のことを考えてくれたのだ。それは事実だ。嬉しかった。
「すみません、じゃあお言葉に甘えてお願いします」
 深々と頭を下げた。滅多にこんなことはしない。ロイに対して、又は大総統に対して。周りの目を気にする必要がある場合にだけする行為。それをエドワードはハボックに対してした。
 ありがとう。
 優しい言葉をくれてありがとう。
 本を置くスペースの確保が出来たことなんて二の次だった。
「じゃあ、あとで大佐んとこに顔出せよ。そのあと、俺んちに案内するから」
 早速作業を始めるつもりらしいハボックは、片手をひらひらと振りながら資料室のドアへと向き直る。大きな背中が見えた。思わず呼び止めた。
「ハボック少尉」
 ポケットに手をつっこんで煙草を取り出しながら振り向いたハボックを、エドワードは真っ直ぐに見つめた。
「少尉。俺、あんたのこと好きかもしれない」
 熱に浮かされたようだった。言うつもりだったこととは別の言葉が、わずかに開いた口から零れ落ちていく。
 ただ、嬉しかったとだけ言いたかっただけなのに。
「あんたが俺のこと考えてくれて、嬉しいって思ったんだ」
 ああともううともつかない声を出したハボックの顔を、エドワードはもう見ることが出来なかった。これ以上見ていたら、顔が赤くなってしまうかもしれないし、もっとすごいことを口走ってしまうかもしれない。
 何をしでかしてしまうのか、自分でも予測がつかなかった。
 いま出来ることといったらせいぜい、なんでもなかったことのように振舞うだけだった。そっけなくハボックから顔をそむけ、本の山でカモフラージュするくらい。
 大将と呼ばれても、名前を呼ばれても、肩一つ震わせてはいけない。
 滅多に呼ばれない、エドワードという名前を呼ばれても。
 もっと呼んでほしいと思っても。
 戸惑ったようなハボックの後姿を見送りながら、エドワードは混乱と緊張にさいなまれた。しかし、わずかばかりの安堵の気持ちが心の片隅を占めていたのも本当だった。
 俺はあんたのことが好きなんだ。

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