寝る子は育つ(たぶん)


 兄さんはよく寝る。
 寝るとなったら、駅のベンチ、川縁、田舎の道端、なんでもおかまいなしだ。
 そのたびにボクは兄さんのお腹の心配をしたり(すぐお腹出すから)、人の迷惑にならないように移動させたりしなきゃならない。別に嫌じゃないんだけど、ボク一人だと困ることが一つある。一人では寝ている兄さんを背負うのが難しいのだ。
 腕の長さとか素材の硬さの関係で。兄さんを起こしてしまってもは元も子もないし。
 というわけで今ボクは困っている。
 両腕で抱えあげるという方法もないではないけど、この場所ではちょっとためらわれる。なぜならここは、東方司令部の建物の中だからだ。ちなみにボクたちの現在地は、資料室とお世話になっている司令部の皆さんの仕事部屋のちょうど真ん中にある階段の脇で、もっと正確にいうなら兄さんが寝ているのは階段脇というより階段の下のスペースを利用して作られた棚の中だ。棚といっても壁をくりぬいた空間のことで、木で枠が作ってあったりスチールで覆われていたりという手間をかけたものではなくて、本当にただくりぬいてあるだけだ。
 それでなんでそんなとこにいるのかというと、ちょうど兄さんくらいの大きさの人が丸まって本を読むのに適した大きさになっているのと、小さな窓から陽が入って暖かいのと、窓の下に野良猫の集まるポイントがあるからだった。兄さんはひとには猫を飼うなとかうるさく言うわりに野良の動物のことを気にかけていて、こうやって時折様子を確認している。餌はやらない。野良が兄さんという人間を「餌をくれる人」と覚えてしまうと野良のためにもならないから。一時でも助けてあげられればと思うボクと、最後まで面倒を見られないなら最初から引き受けないという兄さんのどっちが正しいのかボクにはわからない。
 それはともかくとして、兄さんはこの場所が好きで、棚の中で本をお腹に抱えて寝ている。資料室に探しに行ったらいなくて、食堂にも司令室にも受付にも仮眠室にも中庭にもいないとなるとここに探しに来るのがボクの習慣だ。いつものような経路をたどって最後にここに来ると、兄さんがすやすやと寝ていたという次第。
 この場所は暖かいそうだけど、見ているこっちはごつごつした壁の素材が痛そうで、あまり寝心地がいいようには見えない。だから仮眠室に運びたいのだけど、ただでさえ豆とかちっちゃいとかに過剰に反応する兄さんが、人をからかう意欲に事欠かない人たちのいるこの場所でボクに抱っこされてるところを見られたとしたら……あんまりいい結果にはならないと思う。大佐にからかわれて怒った兄さんが大佐を追いかけて執務室がめちゃくちゃになってホークアイ中尉の心労が増える。それはよくない。だんだん兄さんのプライドを守るためかホークアイ中尉のためなのかわからなくなってきたけど。
 ともかくもそういうわけで、ボクは寝ている兄さんを前に途方にくれているのだった。
 でも捨てる神あれば拾う神ありだ。
「アル、こんなとこで何やってんだ?」
「あ、ハボック少尉」
 階段の脇で途方にくれているボクの前に現われた神はハボック少尉だった。
 少尉はボクの横から覗いて兄さんの姿を見とめると「よく寝てら」と目を細めて笑った。
「よくこんな狭いとこで寝られるな」
「兄さんはけっこう場所には無頓着なので」
 無頓着というか無神経というか、自分には気を使わない人だ、兄さんは。
「痛くないのかねえ。肩凝りそう」
「起きてから文句言いますよ。だから別のとこに寝かせてあげようと思うんですけど、起こすのはしのびないし」
「気持ちよさそうに寝てるもんな。すごいかっこしてんのにな」
「ボクが運ぶとちょっと……」
 支障が、と言葉を濁すと少尉は「あの人は率先してからかうもんなあ……」と天井を仰ぎ見た。そして、咥えていた火のない煙草をポケットに落とし込む。
「じゃ、とりあえず仮眠室に運ぶか」
 少尉はかがみこむと兄さんをひょいっと抱えあげた。ちょっと見、無造作に扱ってるようなのに、兄さんは起きないし壁に頭や手足をぶつけたりもしてない。寝ている小さい人間(ごめん、兄さん)を扱いなれてるみたいだ。
 何の抵抗もなく抱えあげた兄さんを、ボクが少し手伝って少尉が背負った。
 少尉は背が高くて手足が長いから歩幅が広い。ずんずんと廊下を歩いていく。兄さんが起きて一緒に歩いてたらきっと小走りになるんだろうなあと思うと、少し可笑しくなった。
「そういえば少尉、背中の傷はその後どうですか?」
 かすっただけで完治に一ヶ月もかからないと兄さんが言ってたのでもう治っただろうし、兄さんを背中に背負ってるくらいだから、とは思いつつ、一応ご本人に聞いてみた。
 案の定、返ってきた答えは「もー、ばっちり」だった。
「傷跡も残ってないよ。男の勲章を手に入れ損ねちまった」
「勲章ですか?」
「そーです、勲章です」
 何がどうなって勲章なのかはわからないけれど、言葉の内容とは裏腹に、少尉はぜんぜん残念そうじゃなかった。
 多分、傷が残ると兄さんが心配するのを知っているんだろう。兄さんという人は、自分の負う傷には頓着しないくせに、他人が負う傷はなかなか忘れられない。執着、といってもいいかもしれない。見ているこっちはその執着心がやるせないくらいなのだけれど、もし兄さんがそういう人じゃなかったらボクは今ここにいない。真理と一緒に門の向こうだ。あのとき兄さんが迷うことなく腕一本を犠牲にした結果が、ボクだ。
 それでも、兄さんに自分の体を大切にしてほしいというのは矛盾だろうか。ボクは兄さんを犠牲にしてここにいるのに。
 ふと、兄さんが身じろぎした。「アル……?」ともぞもぞ呟いたけれど、寝言なのか起きたのかわからない。とりあえずハボック少尉の隣に並んで兄さんの顔の横で「なあに?」と聞き返してみたけれど、兄さんは「ねこはだめだー」とやっぱりもぞもぞ言うだけだった。寝言だったようだ。しかも「猫は駄目だー」って一体どんな夢見てんのさ。またボクが猫拾ったからお説教してるとかそういう夢?兄さんは夢の中でも兄さんだ。
「猫は駄目って、自分は猫スポットの上に陣取ってたくせにな」
「ご存知なんですか?あの場所」
「知ったのはついこないだだよ。教えてもらったんだ」
 誰に、とは聞かなくてもわかった。きっと兄さんだ。
 最近兄さんはハボック少尉と仲がいい。前からけっこう一緒にお昼を食べたり組み手をしたりなんかしてたけど、兄さんをかばってハボック少尉が怪我をしてからその傾向が強まった気がする。
「だから、ねこはだめだってばー……」
 同じ寝言を繰り返す兄さんを、ハボック少尉が肩越しに見ている。その目が優しい。
 うーん、優しいかな。優しいというより甘いというほうがぴったりだ。飴を舐めてるような、甘い笑顔。なんでそう思ったのかはわからないけど。なんだかわからないことだらけだ。
 その疑問は、仮眠室へ行く途中にある執務室で氷解した。
 ちょうど執務室の前で、ドアを開けて出てきたマスタング大佐と鉢合わせしたのだ。
「おや、鋼のは熟睡してるのか」
 まだまだこどもだな、小さいしな、と大佐が呟いたところで兄さんの豆粒発言対応アンテナが作動した。それまでの熟睡が嘘みたいにぱっちりと目を開け、反射的に「小さい」発言を咎めて叫ぶ。
 面白いのは叫んだ直後、自分が今どこにいてどういう状態なのかに気づいたときだった。
 今いるのは執務室の前で大佐がいて、ハボック少尉におぶわれている。
「ちょっ、少尉、おろせよ!」
 じたばたと人の背中で暴れだした兄さんは、「おろすから。おろすからちょっと待てって」となだめる少尉の背中から自力でおりようとして落ちた。お尻から。
「あー、だから待てって言ったのに」
 お尻と衝撃のあった腰をさする兄さんに手を差し伸べた少尉に、ちょっと戸惑ってから兄さんの手が重ねられる。そのタイミングを見計ったみたいに大佐がぽつりと呟いた。
「よかったなあ、ハボック」
 少尉が固まった。兄さんの手が重ねられた少尉の手は、兄さんを引っ張りあげることもなくその場に静止している。兄さんは固まる少尉に首を傾げ、自分たちの手に視線をやり、それから大佐を見た。頭の中では、大佐の言葉を反芻してるんだろう。
「ああ、すまんすまん。つい思ったことをそのまま口にしてしまった。気にしないでくれたまえ」
 大佐の発言には他意はないらしい。本当に、そのままぽろっとこぼしてしまったみたいだ。
 ただ、少尉は固まっていて、兄さんは少尉と手をつないだまま、やっぱり固まった。
「あ、そっか。そうなんだ」
 そういうことなんだ、と思って頷くと、無意識のうちに声に出して言ってたみたいで金縛りがとけた兄さんが慌てて「どうした?」と聞いてきた。ボクも兄さんと同じく慌てて「なんでもないよ」と言い返すと、ハボック少尉の向こうで大佐が人差し指を口の前に当てて『内緒だよ』とジェスチャーをした。
「アルフォンスくん」
 いつの間にか隣にいたホークアイ中尉が気遣わしげにボクの名前を呼んだ。
 中尉が何を心配してくれているのかはちゃんとわかった。
「大丈夫です。ちょっとびっくりしたけど」
「そう。……それならいいわ」
 中尉は少しだけまだ心配そうにボクを見ていたけれど、もう一度「びっくりはしたけど、よかったって思います」と言うと、安心したように微笑んだ。
 ボク以外の人を大切に思うのが悔しいとか悲しいとか、そういうことはまったくない。むしろ嬉しいくらいだ。
 兄さんはボクをとても大切に思ってくれるけど、ボクがどれだけ兄さんを思っていてもその半分も伝わらない。いや、半分も伝わっていればいいほうだ。兄さんは、自分に向けられる好意を、たとえるなら十分の一以下くらいにして受け取っている。と思う。だから兄さんが一の愛情を受け取るには、周りが十の愛情を傾けないといけない。そうしないと兄さんには伝わらない。
 兄さんを好きでいてくれる人にいっぱいいてほしい。母さんがボクたちに注いでくれた愛情くらい。いっぱい。とてもいっぱい。抱えきれないくらいに。
 そして、兄さんが誰かをいっぱい好きでいてくれるといい。
「アルフォンスくん、このあと時間はあるかしら。よかったら少し手伝ってほしいのだけど」
「もちろん、喜んで」
 兄さんの幸せをほんわかとしながら胸に抱いて、ボクはボクの小さな幸せを享受することにした。 

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