ダブルパロ
苦いクスリに甘い嘘とお迎えです。で鋼  (ハイエド)
金持ちと修理工で鋼 (ロイエド)

 

苦いクスリに甘い嘘とお迎えです。で鋼

※兄さんが既婚者でこどももいて、あの世に行ってあははうふふという話です。

***

「もうすぐ文化祭だなあ。君のクラスは何を?」
「さあ?わかりません」
「わかりませんってね」
「と言われても決めるときはいなかったし、当日僕は入院する予定ですから。準備も手伝えませんしね」
「二年保健室組も卒業か。あ、薬飲むのか? ほら、水」
 感謝の言葉とともに受け取ると水を口に含んで粉末の薬を放り込む。苦い。何度飲んでも慣れないほどどうしようもなく苦い。
「せ、先生……何か甘いものいただけますか……」
「これ、やるよ」
 語尾が少し掠れた、聴いたことのない声が降って来た。
 見上げれば、ゆるくウェーブしている金色の髪をおろした、殺風景な流血フランス人形。
 デコボコしたものを押し付けてきたフランス人形は頭からたらりと血を流している。
「せんせー、調理実習の片付けでシンクに頭ぶつけたー」
「……なんだねその格好は」
 フランス人形に、メルヘンちっくな白いエプロンが異様に似合っている。エプロンもさることながら、スカートというかワンピースというかメイド服もまるで専用にあつらえたかのようにぴったりだ。
 ひざより長い裾からはブーツを履いた足が伸びている。せっかくの可愛らしい格好に似合わず、ハスキーな声で紡がれる言葉は粗雑だ。もったいない。
「あ、これ? 似合う? うち文化祭で喫茶やるんだけどさ、そこの売り子なんだ。最初はヤだったんだけど、いざ着てみたらこれが似合うのなんのって。自分でびっくり。調子にのって着ながらケーキ作ってたらボウルひっくり返して拾ったところでうっかりシンクの下にガツンと……」
「……まあ、似合わないことはないが。むしろよく似合ってるがな、そういう格好をするならせめて股おっぴろげて座るのはやめたまえ」
 メイド服は保健室につきものの黒いシンプルなソファーにどっかりとあぐらをかいた。うわあ、口開かないでおしとやかに座ってれば美しいお人形さんみたいなのになあ、と思いながら手にした菓子――多分菓子を一口齧る。
 途端、顔がゆがんだ。
 確かに苦さは忘れた。当初の目的には適っている。ただ、苦味を忘れられたのは甘さのおかげではなく、この強烈な味だ。しかも、ごりって言った。ごりって。見た目が悪くとも一応マフィンのような形をしているのに中に何を入れたんだろう。
 ふりふりエプロンはそんな強烈な物を人に食べさせておいて暢気に聞いてくる。
「で、どう?」
 吐き出すわけにはいかないのでとりあえず飲み込もうと頑張ってみた。しかしなかなか果たしがたく、ふりふりエプロンが怪訝そうな顔をしたところで保健医が助け舟を出してくれた。
「何だ、君は。まだリサーチしてるのか」
「一応ね」
 リサーチってなんのことですかー?と目で訴えると保健医が説明してくれる。
「この子はケーキ屋さんになりたいんだよ。ま、この格好ならすぐなれると思うがね」
「作る方になりたいんだって何度言ったらわかるんだこの無能!」
 保健の先生を怒鳴り飛ばしたメルヘンはそのまま先生の胸倉をつかんでゆっさゆっさと揺さぶる。そんなことをされても別に怒るでもなく保健医は笑っていた。
「そんなわけだから、感想があったら教えてやってくれないか」
「そうそう、それ聞きたかったんだ。なあ、おいしい?」
「正直に言っていいですか?」
「もちろん」
 本人がいいと言うので遠慮をする必要はない。思いつくままに正直に述べた。
「まずいです。すごくまずいです。信じられません!何入れたんですか!なんか硬いの入ってるし!」
 一気に言うと、メルヘンコスプレの顔がさぁっと青くなり、空気がどよーんと濁った。ちょっと言い過ぎたかなあと焦りかけたとき、相手は勢いよく顔を上げた。
「その言葉を待ってたんだ!」
「へ?どういうこと――」
 聞き返す間もなく、爛々とした目が迫ってくる。
「D組の幽霊ことアルフォンス・ハイデリヒ、クラスメイトの顔も思い出せない君に文化祭までのモニターをお任せします」
 睨み付けながら相手はそう言った。あまりの迫力に、「は、はい……」としか答えられなかった。

 その人はそれから毎日、保健室にやってきた――僕はたいてい教室ではなく保健室にいる。
 そして僕の「まずいです」という言葉にもめげずに繰り返し繰り返し、自作のケーキを携えてくる。
 あるとき、お菓子作りは分量さえ間違えなければそうそう失敗するもんじゃないだろうと言ってみたら、「だって料理と違うから」と返ってきた。お菓子作りがうまくて料理の出来ない子はよくいるけど、逆はちょっと覚えがない。珍しいなあと思いつつ、様々なケーキ屋の商品――見舞いでもらうのだ――を食べてきた経験からいくつかアドバイスをし、その人は気合を入れなおして帰っていく。でもまあ、気合は空回り気味だ。
 そうこうしているうちに文化祭まであと数日という日に、いつもよりもさらに気合を入れて差し出されたケーキにこちらも背筋を伸ばしてフォークをさした。
 口に入れて、咀嚼。
「……あ、おいしい」
「え!? ホントか!?」
「……かな? まずくはないです、というか普通。食べられる範囲内」
「煮え切らないコメント寄越すな!」
 文句を言いながらも水筒から紅茶を注いでくれる。ほんのりと砂糖が入っていて甘い。
「これならお店で出しても大丈夫だと思います、多分」
「素直に喜べない……」
 首をかしげかしげ教室に戻る後姿を見送った三十分後、その人は満面の笑みで走ってきてノックもなしにドアを開け放った。
「クラスでオッケー出た! ったくお前、舌肥えすぎなんじゃないの?」
「肥えてるからモニターを頼んできたんでしょう」
「そーだな。いままでありがとう。お前のおかげで助かった。ホント感謝してる!」
 両手を握ってぶんぶんと振り回される。僕が病人だということを忘れているんじゃないかと心配になるくらい。
「これ、お礼になるかわかんないけど、文化祭当日のチケット。よかったら来てよ」
 クラシカルなメイドのシルエットが描かれた四角いチケット。受け取るかどうか迷ったのはほんの一瞬だった。いまさら「当日は入院するから参加出来ない」なんて言えるはずがない。礼を言って受け取ると、その人は嬉しそうに笑った。それで僕も何かえらいことを成し遂げたような気になって、今度も長くなりそうな入院に立ち向かう力が湧いてくるのを実感したのだった。

 入院は思ったよりも短く終わった。あっけなかった。入院というより、僕の生が終わったのだ。十一月初旬のことだった。
 文化祭当日の夕方、最初に会ったとき――僕の記憶に初めてその人が登場したのはあの保健室での出会いだ――の格好で病院に乗り込んできたフランス人形は開口一番「入院すんならするって言えよ! バカ!」と怒鳴って、「病院では静かに!」と師長さんに叱られていた。退院するの待ってるから、見舞い来るから、またモニターやってもらうんだからな、と鼻をぐすぐすさせて、翌日には自身曰く「最高傑作」というケーキを持ってきてくれて、それは事実、文化祭の数日前の試食したものよりおいしかった。当日にこれを出したのならお客さんも満足だっただろう。
 その人は手術前にも来てくれて、手術後に意識の戻らない僕のそばに毎日放課後につきそってくれて、僕の両親とは顔見知りを通り越して確かな関係を築くまでに至っていた。両親も、息子の友人が気にかけてくれるのがよほど嬉しかったのだと思う。
 仏壇に向かって毎日手を合わせる母が、色々教えてくれた。「ぼさぼさの頭で息を切らせてやってきたので髪を整えてあげるついでにリボンを結んであげたら怒られた」だとか、「最初に会ったときの服がとても似合っていたからもう少しクラシックなタイプの服をプレゼントしようとしたら怒られた」だとか、どうも母の好意が間違った方向に行ってしまっている話が多かったが、そんな母の迷惑行為にもめげず、その人は毎日見舞いに訪れてくれた。しばらくは頻繁にお線香をあげにも来てくれて、嬉しかったけれど、言葉を交わせないもどかしさが辛かった。僕は告白しそびれたのだ。
 どきどきしながら僕が食べる様子を見守っている姿が可愛かった。努力する姿がいとおしかった。毎日病院に来てくれて嬉しかった。病室で泣くまいと我慢している様がせつなかった。告白どころか、ありがとうとごめんすらも言えなかった。
 その後悔があまりに大きかったのだろう。「地縛霊になられると困るんだよねー」とある日いきなり仏壇の僕の前に現れた黒い長髪の少年か少女か――いまだに性別不明――が話しかけてきた。
 彼もしくは彼女は「どっちか選べよ」とふんぞり返って言う。
 いますぐ天国に行って生まれ変わるか、自分のように、霊になって地上を漂っている人を説得して天国に連れて行く仕事につくか。
 地獄という選択肢はないのかと聞いたらしごくあっさりとした返答があった。
「だっておまえ、悪いことする暇もなかったじゃん」
「なるほど」
 へろへろの身体では非行に走ることも出来ず、短くはあったがおおむね善良な人間として生きてきたから当然といえば当然なのかもしれない。
「どっちがお勧めですか?」
「……意外な反応だねえ。まあ、まっさらになって生まれ変わるのもいいし、残してきた人を見守りながらしばらく働くのも悪かない」
「生まれ変わるとそれまでの記憶はなくなるんですか?」
「当たり前だろ。いちいち覚えてたら脳みそがパンクするでしょーが。おまえ、自分が生まれる前のこと、覚えてた?」
「……なるほど」
 普通に考えたら生まれ変わりを選ぶんだろうけれど、この世に未練がある僕としては後者に心惹かれる。目の前の彼OR彼女も後者を勧めたいようだ。曰く、
「人手不足なんだよねー。ここ数ヶ月勧誘してんだけどひとっりも就職してくんねえの」
 結局二つ返事でオーケーした。入院した僕を励ましてくれたその人が、いつか困ったときに助けられるように。

***

「というわけで、その人が貴方なんです。その節はありがとうございました」
「って言われてもな……記憶ねえし。お前のことちっとも知らないし。つーかそもそもそいつ女じゃん?  オレ、はっきりきっぱりくっきり男なんだけど」
「あれ? 僕、その人が女の人だったなんて言いました?」
 しばらく沈黙したのちに、「……言ってない、かも」とため息をついたその人は、空飛ぶバイクの後部に乗って僕にしっかりとつかまっている。
 彼は数日前、不幸な事故で頭を打って命を落とした。それが猫を助けるためだったというのがまたこの人らしい。頭を打ったためか、自分が誰でどうしてそこにいるかもわからないまま霊になって現場付近をふらふらしていて僕の部署まで連絡が来たのだ。僕はちょうどそのとき別の仕事を抱えていて、それを同僚に強引に代わってもらって彼の案件を奪い取るまでにかかったのが数日。彼と顔を合わせた途端、いろいろな気持ちがないまぜになって泣いてしまって、えらく驚かれた。彼は彼でわけもわからず大変だろうに、いきなり目の前にあらわれた若い男がわあわあ泣き出したのだ。それでも優しい彼はじっと待ってくれて、僕はぐしぐしと鼻をすすってなんとかマニュアルどおりの挨拶をした。
 泣いた理由を聞かれて、僕も僕で相当動揺していたので――たぶん今もしている――懇切丁寧に一から十まで喋った。そして引き続き天国までのドライブ中。生きている間は決してかなわなかったことを数十年の時を経て叶えられた。もう本当に混乱していて、彼が唐突な災難で生を強制的に全うさせられてしまったのにも関わらず、夢のドライブに舞い上がってしまっている。最悪だ。
「それでオレの記憶って戻る?」
「さあ……それはわかりません。記憶喪失のケースでは、記憶が戻るより先に生まれ変わりの手続きをとりますから。いますぐ頭でも打って記憶を取り戻せば別ですが」
 こんなこと言いたいんじゃないのに。長年培った経験から口がマニュアルをぺらぺらと吐き出す。
「通常、亡くなった人に関しては三つの選択肢が用意されています。天国へ行くか、地獄へ行くか、僕のような仕事につくか。前者二つは並列して与えられることはありませんし、後者は地上になんらかの執着を残している者にしか与えられません。あなたの場合、選択肢はたった一つです」
「えー? 地獄?」
「何バカ言ってんですか。天国ですよ天国。あなた、ちっちゃな猫助けて命落としたんですよ? 地獄行きのわけ無いじゃないですか」
「最後のは?」
「記憶喪失ですから執着も忘れているでしょう。そういう場合は資格がないとみなされるんです」
 なんだかものすごいマニュアルトークをしている自覚がある。記憶喪失でも資格があると認められるケースはあるにはあるが例外だ。あの世で一緒に暮らしてほしいなんて思っても言えるわけがないし、ましてや記憶を失ったこの人にとっては困惑するばかりだろう。ならばそもそも目の前でわんわん泣くな、理由まで全部ぶっちゃけるな、という話だがもはや手遅れだ。
 背中で考え込んでいたらしい彼が、あきれたように肩をすくめる気配がした。
「おまえ、仏壇にいたんだろ? それで天国とか地獄とかってどうなってんだ、この世界」
「便宜上そう呼んでいるだけです。じゃないと、この世界の多くの宗教を全否定することになっちゃうじゃないですか」
「それもそうか」
 便宜上、天国と呼んでいる場所には僕のような仕事をするものだけじゃなく、他にも基盤をもって生活しているひとたちが大勢いる。でも地上でさまよった人たちには、選択肢のうちから最後の一つを選ぶまではその事実を知らせることはない。誰にも彼にも教えていたら、現世で結ばれなかった恋人や不幸な別れ方をした親子がそのまま天国に住みたがってしまうからだ。天国と呼ばれる場所にもキャパシティというものがある。
 この人が記憶を失わず、そして何かに執着を持っていてくれたらよかったのに。
 またしても自分本位の考えを持ってしまって、僕は拳をぎゅっと握り締めた。スピードがあがる。霊体には物理的な風なんて関係ないから十一月の空気の中でも寒くないしどれだけスピードをあげても困ることはない。バイクの性能の限界まであげても問題はない。余計なことを言ってしまわないうちに送り届けよう。そして係の人にこの人を預けてそれで終わりだ。この人に会うために続けてきた仕事だから、これを機に引退してもいい。しかし最後まで迷惑をかけてしまった。いまさら、しかも記憶喪失の状態で「僕、あなたのことが好きだったんです」なんて言われて、彼もさぞかし不愉快だろう。いや、今のところ混乱しているだけかもしれない。
 どんどんスピードを上げていくと後ろの彼が僕の腰に腕を回した。物理的な法則からは解放されているから――しかしバイク自体は法則に縛られるというこの不思議――単に座席に乗っかっているだけでも別に転げ落ちたりはしないのだが、その辺りはまだ生きていたときの感覚が残っているらしい。ぎゅっと抱きしめられているようで嬉しい。たまらなく嬉しい。そしてどうしようもなく最悪だ。
 天国について受付で係の人に彼をお願いすると、彼は僕に丁寧に頭を下げた。
「ありがとな」
 こっちこそ。もう本当に何から何までいろいろと駄目で、気持ちを押し付けてしまって混乱させてもうなにがなにやら。全てにたいして申し訳なくて、首を横に振るのが精一杯だった。
 ではこちらに、と案内する係に従って彼は去って行った。当時もミニサイズだった後姿はいまでもやはり小さかった。
 部署に戻って、僕は辞表を書き始めた。今日の僕の対応はプロとしてあるまじきことだったし、何よりこの仕事にもう意味を見出せなくなったからだ。
「ああん? 辞表だと?」
 長い黒髪をざんばらに流した上司は足をデスクにあげてだらしなく椅子に寄りかかっていた。まったくやる気のない態度で、僕が提出した辞表をその場で破ろうとする。
「ちょっ、それせっかく書いたのに!」
「こちとら手がまわんなくて忙しいんだよ。いきなり辞めるなんて言われても困んだよクソガキ」
 手が回らずに忙しいという割りにはずいぶんと暇そうだ。
「返してください。上に直接かけあいます」
「ヤだね」
「じゃあ、書き直すからいいです」
「お前が書き直してる間に上に連絡して止めてもらう」
 それでも僕は食い下がった。
「規則にあるはずです。社員が辞表を提出した場合、会社はよほどのことがない限り受理するって」
「人手不足は深刻な問題で、『よほどのこと』なんだ。わかったか」
 普段おちゃらけているくせに、一旦にらみをきかせると上司は相当怖い。でもここは譲れないので睨み返した。じっと互いににらめっこの状態になっていたのをこわしたのは一本の電話だった。
「ん? ああ、……へ? たまにあんだよね、めんどくさいなー。……わかった、こっちから一人そっちにやるから」
 二、三やりとりをした上司は威勢良く辞表を破った。止める暇もなかった。ついでに抗議する間もなかった。
「お前、判定所の受付に行ってきな。さっきお前が連れてったやつが向こうから戻されてきた」
「え!? なんでですか!?」
「知らないね。とにかく行って来いよ」
 わけがわからず僕は走り出した。廊下ですれ違う人に何度かぶつかっていろんな用紙が舞ったが気にする場合じゃなかった。何があった? 何があったんだ? あの人がまさか、地獄行きだなんて、そんなことがあるはずが……!
 息を切らせてたどり着いた僕の前に判定係の人に連れられたあの人が現れた。手に何か持っている。そういえば、下で会ったときから何かを持っていたような覚えが、あるような無いような。
 判定係が言う。
「記憶は戻ってないんですが、このまま天国送りにも地獄送りにも出来ない状態なんです。心残りがあるみたいで。あなたに渡すものがあるそうですよ」
「僕に?」
 彼は手にしていた包みを差し出した。
「本当に、僕にですか?」
「……確信はないんだけど、たぶん。さっきの話聞いて、中身確かめたら、お前に渡すつもりだったんじゃないかと」
 おそるおそる受け取って震える手で丁寧に包みをはがすと、中からは小さな箱が出てきた。ちょうど、よくなじみのあるものが一個入る大きさの。
「これ……!」
「思い出せないんだけど、オレどっか行く途中だったんだ。それで……ひょっとしたらこれをお前んちに届けに行こうとしてたんじゃないかって」
 チョコレートケーキが一つ、というより一つ分の残骸がおさまっていた。高校生だった彼が何週間もずっと作りつづけていたチョコレートケーキ。ちょっともうぐちゃぐちゃで元はケーキだったかなくらいの有様だったけれど色も匂いもケーキだった。
 そして彼がもう一つ二つ取り出したのは、手帳と財布。ポケットに無造作に突っ込んでいたのでそのまま持ってきていたらしい。
「あの場に花束なかったか? 財布ん中に花屋のレシートがあった。それと、ここ」
 開いた手帳に丸がついている。日付は八日。
 命日、と書いてあった。
 僕のだ。僕の命日。
 この人は、結婚してこどもが出来てからもずっと毎年僕のお墓と家の仏壇の前で手を合わせてくれていた。奥さんを亡くして、こどもが独立してもずっと。毎年、欠かすことなく。僕自身が命日など忘れかけていた今になっても。
 涙がこぼれた。ぼろぼろ、ぼろぼろ。抑えようとしても止まらなかった。そのうち声を上げて泣いてしまって、通行人が随分振り返ったけれど泣き止むことが出来なかった。この人の執着が僕にあったことが嬉しくて、悲しくて、いとしくて、どうにもならない。記憶をなくしても彼は彼のままだった。僕はこの人のことが好きだ。好きだったんじゃなくて、いまでも好きだ。ずっと好きだ。彼がいなくなるのなら、別の人に生まれ変わるのなら、もう僕はこの長いかりそめの人生を終えていい。
 目の前で彼が困っていた。係の人も同じように困惑していて、僕は彼とともに誰もいない一室に押し込まれた。またあとできます、と言って係の人は離れていく。
 この場合、もう僕なんて放っておいて彼を連れて行ってくれたほうがいいのに、と恨めしく思う。だってもう僕にはどうしようもない。余計なことを言ってしまう前に彼と別れたほうがいいんだから。
 小さな部屋でぐしぐしと泣く僕を見て彼はぽつりと呟いた。
「……ごめんな、忘れちまって」
 決してそんなことは無いと伝えたくても口から出るのはしゃくりあげる声だけだ。かわりにぶんぶんと首をふる。あなたは決して悪くない、あなたのせいじゃない。
「なあ、もう泣くなよ。こどもの慰め方なんて忘れちまったんだから」
 そう言いながら彼は僕の背中に両手を回した。あれからあまり彼は伸びなかったので、はたからは、背ばっかりひょろひょろと大きい僕を抱きしめるというより、僕に抱きついているようにしか見えなかっただろう。それでますます僕はこらえきれなくなって、もう半分むせるようにして泣いて、言葉にならない声で何度も好きだと言った。言ったって聞こえないだろう。なんて言ったのかわからないだろう。そう思って繰り返し、繰り返し。
 もう会うことはないから。

***

「エドワードさん……またその格好なんですか?」
「課長がこれしか用意してくんねえんだよ。……まあ、似合ってんだからいいんじゃね?」
 そう言ってエドワードさんはあのとき保健室で着ていたようなメイド服を着てフランス人形状態でくるりと回った。スカートの裾が翻ってペチコートがふわりとはためき、一瞬見える下着がなまめかし……いはずがない。だってトランクスだ。というかエドワードさんは男だ。いくら僕がこの人を好きで、欲情することがあっても、男のトランクスを見て喜ぶ趣味はない。
 あのときの僕の涙はなんだったのか、エドワードさんは判定係から「とりあえず記憶戻るまでよろしく」と僕の所属する部署まで送られてきて、その後ひょんなことから記憶を取り戻し、これでまたお別れかと覚悟したら、次の日課長とともにやってきて「今日からあらためてここで働かせてもらうことになりました、よろしく」などとみんなに挨拶をした。僕は文字通り、ぽかーんとしてしまって、エドワードさんはそんな僕を見てにやにやと笑った。しかも、高校生バージョンで!
 僕が所属するのは地上で迷子になった死者をこちらまで連れてきたり、その他まあ色々とトラブルを解決する慢性的にわりと忙しい部署で、給料もそんなに高くない。というより実働時間を考えれば薄給の部類に入るといってもいいだろう。その代わり、ある特権が与えられる。こちらの世界では死者は自分の死んだときの年齢の姿でそのまま時を過ごすことになるけれど、僕たちはいままで自分が経験した年齢の姿だったら何歳のときにも慣れるのだ。やろうと思えば、昨日は幼稚園児、今日は中年、明日は赤ん坊、といった日毎に違う年齢で出勤することも可能だ。効率的ではないのでたいていは一つの年齢を選んでそれに固定するけれど。
 そんな中でエドワードさんが選んだのは僕と同じ高校生の姿だった。僕の場合は赤ん坊から高校生までの形態しか取れないので仕事上もっとも効率のいい姿を選んだのだけれど、エドワードさんはもっと上の年齢を選んでもいいはずなのに高校生。よりによって高校生。そして記憶を取り戻したエドワードさんに告白された。しかも高校生の姿をとった理由ときたら。
 エドワードさんはわりと即物的でしかもあけっぴろげな人だった。理由を聞かされて僕は赤面し、そのまま押し倒された。もちろん、職場ではなく僕の家で。
 まったく、このままじゃメイド姿のまま上に乗られかねない。
 同じ年月を過ごしたというのに、エドワードさんのほうが色々悟っているというのはどういうことなのだろう。職場では僕が先輩であるにも関わらず、プライベートでは完全にエドワードさんが主導権を握っている。惚れた弱みがどうとかいうレベルじゃない。おそらく精神構造のあり方が根本から違うのだ。そうに決まっている。
 そんなこんなで、僕たちの仕事は辛いことも多いけれど、 エドワードさんは今日も元気に仕事をしている。休憩時間には家庭を築いた息子さんを上空から眺めて、満足そうだ。
 にこにこして振り返ったエドワードさんが言う。
「アルフォンス、昼飯行くぞー」
 僕が答える。
「ちょっと待って下さい、あと一枚チェックしたら終わりますから」
「早くしないと置いてくぞー」
「すぐですから待ってくださいってば!」
 互いへの執着心がなくなるまで、僕たちはずっと一緒にいるのだ。


※「苦いクスリに甘い嘘」「お迎えです。」(田中メカ/白泉社)




ricco e riparatore [金持ちと修理工] で鋼(ロイエド)

 すれ違い際に、ひょいと帽子を傾けて会釈を寄越したのは、着古した作業着に身を包んだ修理工だった。世の中に対してだいぶ控えめな身長で、軽快な歩き方からして年若いことはすぐに知れた。帽子からはみ出した金色の髪は無造作に後ろで一本にくくられている。アパートの部屋の前で紙袋いっぱいの荷物を持ったまま阿呆のように修理工の背中を眺めていると、彼は突然帽子を取って髪をとめていたゴムも取った。ぱらっと広がった髪はさぞかし綺麗だろうというこちらの予測を覆して、案外とぼさぼさし、艶も無い。見た感じとして、稼いでいるというふうではないから、そこまで身なりに気をつかってはいられないのだろう。修理工の平均的な収入を考えれば当然のことだし、こちらとしても何を期待したわけでもないのでがっかりすることもない。ただ、きちんと作業着を洗って、髪も洗っているようで、清潔な印象が好ましかった。
 こちらがぼーっとしている間に彼は廊下を曲がって行ってしまい、あとに残されたのは荷物による腕のしびれだけだ。とりあえず鍵を開けてダイニングのテーブルに荷物を下ろすと、部屋の彩りにと思って買った花を挿すための花瓶を取りに行く。確かこの辺りにあったはず、と洗面台の下を探すと、蛇口をひねってもいないのにぴとぴとと水の落ちる音がする。さて、どこか閉め忘れでもしたか、とバスタブとこことを区切るカーテンを開けたけれど何も変化はない。耳を澄ませて少しずつ、音が大きくなる方へ方へと近づいていくと、なんのことはない、洗面台の脇、トイレのタンクから伸びたパイプから水が垂れていた。
 いつもならここで工具を探して自分で直すところだが、気づけば玄関のドアを大きく開け放ち、廊下を走って道へ飛び出していた。左右をきょろきょろとして目的の姿を見つけると「おおーい!」と大声を上げる。名前など知るはずもないので「おおーい!」に続けて「修理工の人!」と叫んだ。彼は迷うことなく振り向くと、俺?と確認する仕草をすることもなく戻ってくる。すぐそばまで来た彼はこちらを見上げて「あんた、ラッキーだったな」と言った。金色の髪の主は青年というより少年に近く、目も髪と同じ色をしていた。艶の無い髪に比べ、目の方はぴかぴかに光った飴玉のようだった。
「君がまだいてくれてよかった。帰ったらいきなり水漏れしていてさ。ちょっと見てくれ」
 先ほどは走った廊下を今度はゆっくりと歩く。後ろを彼が歩いている。少し嬉しい。
 問題の箇所に早速案内すると、彼はタンクの脇をひょいとのぞきこんで「これならすぐ済むよ」と笑った。それは困る。「座ってあくびの一つもしてなよ」 しかめっ面を眠気のためと誤解したのか、彼はそう付け加えると持っていた工具を取り出してパイプに手を伸ばした。
 横顔を眺めていたい気もしたが、そうもしていられない。
 食料を大量に買い込んだこのタイミングに感謝しつつ、キッチンへ急いだ。時間はあまり無い。手間はかけられるものならかけたいが、今日は断念することにした。代わりに大切にしていた一本を景気よく開けてみよう。ワインに合うもので、すぐに用意出来るもの。頭の中のレシピと時計ににらみ合いをさせながら手を動かしていく。途中でガチャガチャとしていた音がやんだので慌てて駆けて行って「ついでだから他の配管も見てくれ」と告げる。「料金上乗せになるけど」「構わないよ」そしてまたキッチンへ戻る。ガチャガチャとまた音がしたのでほっとした。これであともう少し時間が出来た。テーブルのセッティングをして、氷の中にワインを突っ込む。あと少し。配管の点検にどれくらい時間がかかるかは知らないから、あと少し、あと少しとタイムリミットを何度も設定しなおして料理を作る。あと少し。あとどれくらい?あと少し。もう少し。
「終わったよ。ったく、広いアパートだね。あんた、金持ちなんだな」 ひょいとキッチンに顔をのぞかせた彼が言った。
「こっちも終わったよ」「何が?」「どうぞ。入って」 彼を手招く。テーブルの上のものを見て奇妙な顔をした彼に「座って」と椅子を引いてあげる。「これ、どういうこと?」 とりあえずは座ってくれた彼がこちらを見上げてくる。本当に飴玉みたいな目だ。
「お礼だよ」「どういう物好きなんだ?あんたは」「物好きというより、純粋な好奇心、と言ってもらいたいな」「初対面の修理工に?」「そう、君に」
「オレ、割と大食らいだし、金持ち相手だからって遠慮したりしないからな。後悔すんなよ?」
 見返した視線に込めた意味を悟ったのか、彼はいたずらっぽく微笑んだ。飴玉はまるで宝石みたいにつやつやと輝いた。


※「クマとインテリ」 (basso/茜新社) より「ricco e riparatore [金持ちと修理工]」


上の続き


「兄がお世話になっているそうで」
 少し茶色がかった金髪の青年が、茶封筒から書類を出して言う。ローテーブルの上に何枚も何枚も並べるので、木の質感を尊重した天板は白い紙で埋め尽くされた。
「兄?」
「ええ。こちらでお世話になっているんでしょう?エドワード・エルリックですよ」
「……エルリックというのか」
 ちょっと待ってください、知らなかったんですか?とアルフォンス・エルリックは金色の目を大きく見開いて書類を取り落とした。すかさず「失礼」と拾ってそろえるあたりはそつがない。
「彼はエドワードとしか名乗らなくて、私も別に聞かなかったものだから」
「どこか抜けているんですよね、ロイさんは」
 アルフォンスは顧客をそう評すると、サイドテーブルのコーヒーを引き寄せた。挽いたばかりの豆の香りが辺りに漂っている。
「お部屋もだいぶ片付きましたね」
 ロイは周りを見渡すと、苦笑いを浮かべた。
 偏った綺麗好き、といえばよいのか、エドワードは自分の部屋もロイの部屋も散らかっていようがいまいが頓着しないが、二人で使う共用スペース、例えば居間やダイニング、キッチン、バスルームなどは散らかっていると我慢がならないらしい。居間の隅に積み上げられていた本は本棚に納められ、ケースと中身のあっていないCDも全て元の通りにペアリングされた。聴こうと思った音楽をすぐに聴ける生活というのはありがたいものである。
「エドワードとは一緒に住んでいたのか?」
「いいえ。それぞれ一人暮らしです。部屋はすぐ近くですけどね。この年になると兄弟といっても毎日顔をつき合せるのは鬱陶しいものですから」
 十五も年下のアルフォンスで「この年になると」ならば、自分などどうなるのか、とロイはため息をついた。
 アルフォンス・エルリックは会計事務所を開いている。親があちこちに残した遺産の管理を委託するのにロイが選んだのがアルフォンスだった。ロイ自身はさして名が通っているわけでもない物書きの端くれだが、遺産を食い潰さない程度の収入はある。初めて会ったときにエドワードが「広いアパート」と素直な感想をもらしたこの建物はロイ自身の持ち物だ。駆け出しの会計士だったアルフォンスを選んだのはロイの単なる勘で、どうせ自分が独力で得たものではない親の遺産など無くなったら無くなったでいいくらいの心持ちでいたのだが、ロイの勘は大当たりだったのかアルフォンスは極めて誠実かつ堅実に管理をこなし、不動産の貸付からあがる収益は文筆業よりもずっと多い。ロイは基本的に金には執着しないので、恐縮するアルフォンスを押し切って、その収益の半分をアルフォンスのものとしている。
「エドワードも君を手伝ったりするのかな」
 ふと疑問に思って聞いてみれば、今度はアルフォンスがため息をついた。
「ボクは前々から一緒に仕事をしようと言っているんですけどね。兄さんだって会計士の資格持ってるし。でも兄さんは、今の仕事が好きだからずっとやっていたい、って言うんです」
 何度言っても断られるからいい加減諦められればって思うんですけど、なかなか諦められなくて、としょんぼりするアルフォンスを見ていると、「毎日顔をつき合せるのは鬱陶しい」という先ほどの発言も本心ではないのではないかと思えてくる。
「君もここに住むか?部屋は余っているよ」
「嫌ですよ。ボクはお邪魔虫にはなりたくありません」
「別に邪魔ではないんだが」
 時折、ある特定のカテゴリに属する声やら音やらが夜中に聞こえるくらいで、耳栓さえすれば他の日常生活にはなんら支障が無いはずだ。むしろ無いのが問題なくらいだった。
「あー……まあ、兄さんだからなあ……」
 真顔のロイを見て何か思うところがあったのか、アルフォンスはあーだとかうーだとか唸って「……えーと、がんばってください」とわけのわからない励ましを寄越した。


「ただいまー。ロイー、ロイロイーちょっと来てくれー。ついでにタオル持って来て」
 今度夕食をともに取ることを約束してアルフォンスが帰ってしばらくして、エドワードが帰ってきた。ドアの前で大声を上げるエドワードに、ロイはいったい何事かと思いながらバスタオルを抱えて急ぐ。
「ぬれねずみだな。どうした?」
「ルッカフォートさんとこ行ってたんだけど、水道管が脆くなってて、修理しようと思ったら間に合わずにポキンと……」
 その先は聞かなくてもわかる。折れた水道管から噴出した水に見舞われたのだ。
 バスルームへの直行を命じたロイを、エドワードはそろそろと見上げる。
「床がぬれちゃう……」
 玄関からバスルームまで。
「気にしなくていい。夏はもう過ぎたんだ。早くシャワーを浴びなさい、風邪を引いてしまうよ」
「はーい」
 サンキュー、と言ってぱたぱた駆けて行くエドワードの姿がバスルームに消えるのを確認し、ロイは靴箱の脇からモップを取り出し、エドワードの跡をたぐるように廊下を拭いていった。
 あらかた拭き終えた頃、バスルームの扉が開いて開口一番エドワードは「オレがやることだろ!」と不満気に睨みつけてきた。自分のしたことは自分で責任を、とエドワードはなかなかにしっかりとした人間だが、もうロイがやってしまったのだから仕方がない。先ほどの「サンキュー」より幾分苛立たしさの混じる「サンキュー」を言い置いて、バスローブを纏ったエドワードはずかずかと居間へ歩いた。もちろん、ロイも後をついていく。
「誰かお客さんでも来た?」
 テーブルの上に広げられたままの書類を見たエドワードに聞かれて、ロイは「アルフォンスくんが来た」と答えた。
「あー、そっか。そろそろ月末だもんな」
「君の苗字はエルリックというんだね」
「あれ?言ってなかった?」
「アルフォンスくんと兄弟だということも聞いていない」
「あれ?それも言ってなかった?」
 あっけらかんとしたエドワードに他意は全くないらしい。つまりは、教えていたつもりであったと。言うのを忘れていただけであったと。
「君は自分のことを話すのが好きじゃないんだと思っていた」
「何だよ、その誤解。あんたが聞かないから喋らなかったんだろ、多分。自分からべらべら喋るほどお喋りじゃねえし。……まあ、フルネームも教えてなかったのはオレも自分でびっくりだけど」
「エドワード。君はどうしてここにいるんだい?」
「へ?」
 初めて見たときに飴玉みたいだと思った目が大きく見開かれた。アルフォンスと違ってエドワードはツリ目だが、こういう表情をすると兄弟はよく似ている。
「今更なに言ってんだよ。あんたがここに住めって言ったんだろ」
「いや、だから何故ここに住んでくれるのかな、と……」
 確かに誘いはしたが、本当に一緒に住んでくれるとは思いもしなかった。数ヶ月の間、何度もセックスをして、同じベッドで寝て、朝目覚めればキスをしたけれど。どうも、エドワードからこちらに向けてのベクトルに、恋だとか愛だとかが存在している気がしなかったのだ。
「……無神経な野郎だな。オレ、そんな節操無い人間じゃないっての」
 気のせいだったのか。恋やら愛やらは存在していないこともないらしい。
「じゃあ、君は私のことが好き、と。そう思ってもいいのかな」
「好きじゃなきゃ、おっさんと一緒になんか暮らしてねえよ。アルか、可愛い女の子のとこにでも行く」
 人の袖を引っ張ってどこへ行くのかと思いきや、エドワードの向かう先は寝室だった。ダブルに買い換えたベッドにひょいと飛び乗ったエドワードにつられて、ロイも倒れこむ。
「あのさー、これ言おうかどうか迷ったんだけど。オレ、男はあんたが初めてなんだよ」
「ふえっ」
 頭をしっかりとエドワードに抱え込まれていたので、ロイの驚きの声はくぐもって変な風に響いた。
「最初は興味本位だった。経験出来ることはなんでもしてみなさいって母さんが言ってたからな。で、一応少しは怖かったんだけど、あんた上手くて気持ちよかったから」
「もしかして私の身体が目当て――」
「アホか!」
 エドワードは顔を上げたロイをぽかりと殴った。
「いくらよくても、それだけだったら一緒に暮らしたりしねえよ。夜だけでいいだろ、そんなの。でも朝も昼も会えるのがいいなって思ったからオレはここにいるんだ。以上。質問は?」
「ありません」
「他に何か問題があったら今のうちに言え」
「Kein Problem.」
「よし。じゃ、キスしろよ」
 命令に素直に従えば、エドワードはとても満足そうに微笑んだ。次の命令を請えば、「言われなきゃわかんねえのか、この無能」と暴言が返ってくる。
「君に無能と言われるのは悲しいな。これで、正解だといいんだが」
 バスローブのあわせを開くと、「Richtig」と楽しげな声が降って来た。